

奈良に遊びに来る時は、たいてい昼の明るい間に観光を終え、日暮れとともに帰っていく、というスケジュールが多いのではないだろうか。 実際、お寺の拝観時間や博物館の入館時間も夕方5時にはきっかり締め出されるのだから、さもあらん。しかしそれではもったいない。本当の奈良の魅力は、日が暮れ宵闇が降りて始まる、と言っても過言でないのだ。
もちろん、夜が魅力的といってもナイトライフとは違う。むしろその逆、人工的な灯りが何一つない素朴な夜が、よりリアルに時間を超越させてしまうところにある。闇には、時間も場所もあらゆるものを包みこみ飲み込んでしまう超越的な奥行きがあるからだ。
私自身がそんな暗闇の力を体感したのはお祭りの夜のこと。とりわけ深夜を選んで行われる春日大社の摂社、若宮神社の
「春日若宮おん祭」の「遷幸(せんこう)の儀」は、夜の暗闇を通じて一千年のタイムスリップをしてしまいそうな神秘の祭りだ。
戸外にいては体も凍える真冬、深夜零時から繰り広げられる儀式は、神様をいつもの神殿から外へ連れ出すというもの。たしかに、いくら神様でもずっと同じ場所にいたのでは力も鈍り、今で言うならエコノミー症候群に陥りもする。そこで神様を喜ばせ、活性化しよう、という発想がこのお祭りなのだ。
とはいえ神様だから誰にも姿を見せてはならず、そのため春日大社の中はもちろん奈良公園の中央部に設営された御旅所
(おたびしょ)まで、街の灯りはことごとく消され、完璧な暗闇に沈む。
しっかり防寒をこらし、携帯も切って、参道にたどりつくまでの暗闇の中は、人が本来の力を取り戻す装置になる。なぜなら、しっぽりたちこめる暗さの中で視覚が遮られる分、他の感覚が妙に鋭敏になるからだ。土の香り、物影を揺らす風の冷たさ、ざわめく葉音や鳥の羽ばたき、星明かりだけが透かす空。忘れていた感覚が、目を覚ます。
やがて参道には、「ヲー、ヲー」という警蹕(みさき)の声を放つ神職たちが、榊の枝で十重二十重に囲んで神霊をお連れしてくる。たよりとなるのは松明の灯りだけ。道の上に散らばる火の粉が幻想的で、まさに今、神様がお通りになられているという現実を目の当たりにする。事実、私も、ぞくぞくとした霊気を感じ、体が透ける気分になった。
それは五感とは別の、見えるはずのない神様を感じる体感の目覚めだろう。文明という便利な鎧に包まれ、とっくにそんな感覚を忘れてしまった現代人。しかしここ奈良の闇にふれれば、きっと誰でも、何かを思い出す。
もちろん、こんな体験、日帰りではかなわないから、ちゃんとホテルの部屋を確保して、しっかり防寒したうえで出かけることだ。祭りが終わって深夜にホテルに帰りついたなら、暖かい部屋とお風呂が待っていてくれるというのも、奈良の夜のお楽しみ。文明のありがたみをかみしめよう。
さらに翌日、ゆったり朝食をいただいた後、ふたたび春日大社に出かければ、今度は昼間、参道でくりひろげられる神事芸能を堪能できる。そう、神様を楽しませる能や雅楽、神楽や舞楽など、中世以前のあらゆる芸能が神様に奉納されるさまは見て飽きない。
思えばこのお祭りは、神様を喜ばせると言いながら長く人間が楽しんできた行事でもあった。としたら、夜を楽しみ昼を喜び、神様気分で奈良の夜を覗いてみたいものである。