今西家書院と日本酒春鹿
中世の町割りを今にとどめる奈良町の一角、「名勝 旧大乗院(だいじょういん)庭園」南に位置する福智院(ふくちいん)町の今西家書院は、室町時代中期に建てられた重要文化財です。書院は一般公開されており、四季折々に美しく整えられた庭園を眺めながら喫茶を楽しむこともできる憩いの空間です。
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中世の町割りを今にとどめる奈良町の一角、「名勝 旧大乗院(だいじょういん)庭園」南に位置する福智院(ふくちいん)町の今西家書院は、室町時代中期に建てられた重要文化財です。書院は一般公開されており、四季折々に美しく整えられた庭園を眺めながら喫茶を楽しむこともできる憩いの空間です。
続きを読む鹿と人が、互いに驚くこともなく街や公園を行きかう奈良市中心部。世界でも極めて珍しい「奈良のシカ」は、国の天然記念物に指定されている、れっきとした野生動物(ニホンジカ)です。古来、「神の使い」「神鹿」として扱われ、死なせた場合は死罪さえ免れなかったという鹿たちと、奈良の人々はどのようにくらしてきたのでしょうか。そこには1250余年続く、鹿と人の共生の模索があります。
続きを読む近鉄奈良線、京都線、橿原線が乗り入れ、東西南北に近畿を結ぶ大和西大寺駅。その名の由来が、駅から数分の場所にある真言律宗総本山 西大寺です。
続きを読む大和平野と吉野を結ぶ拠点として、古くから人々が行き来した高取町。近鉄橿原神宮前駅から吉野方面へ3駅目の壺阪山駅で降り、目の前の国道169号線を渡ると、「土佐街道」と呼ばれた古い町並みが今も残ります。3月には、趣向を凝らした雛人形と寄せ植えの花々が訪れる人を明るく迎えてくれる、「町家の雛めぐり」が開催される予定です。
続きを読む登大路ホテル奈良の朝食でもお選びいただける「大和(奈良)の茶粥」。ほうじ茶の香ばしい匂いが食欲をそそる茶粥は、日本の食文化を代表する「米」と「茶」が結びついた食べ物です。 「京都の白粥、大和の茶粥」などと言われ、奈良の郷土料理として紹介される茶粥ですが、実際は近畿地方を中心に、主に西日本でよく食べられてきたようです。にもかかわらず、「茶粥といえば奈良」と言われることが多いのはなぜなのか。今回は奈良から江戸、そして全国へ伝播した、奈良の茶粥についてご紹介します。
続きを読む秋篠寺は奈良時代末期の780年頃、光仁(こうにん)天皇の勅願によって僧の善珠(ぜんじゅ)が創建したと伝わります。「秋篠の僧正」と呼ばれた善珠は、南都六宗のひとつ法相宗(ほっそうしゅう)の学僧としても名高く、興福寺南円堂に安置されている国宝 木造法相六祖坐像の一人です。
続きを読む登大路ホテル奈良から直線で北東に5キロメートルほど、京都府木津川市加茂町当尾(とうの)地区は、春日山原始林の北の丘陵地帯にある山里です。「とうの」という地名の由来は、かつて南都仏教の僧侶たちの修養の場として塔頭が並び、「塔の尾根」ができるほどであったことから「塔尾」、さらに「当尾」の字があてられたといわれます。古くから奈良との往来がさかんだったこの地には、九体阿弥陀仏や吉祥天女像で有名な「浄瑠璃寺」や、平等院より100年余り早い阿弥陀如来坐像を本尊とする「岩船寺(がんせんじ)」のほか、多くの摩崖仏が残る「石仏の道」があります。
続きを読む「女人高野(にょにんこうや)」の名で知られる室生寺(むろうじ)。三重県との県境にある宇陀市室生は、約1500万年前に活動した「室生火山群」によってできた奇岩や渓谷の美しい一帯です。
続きを読む山道の登りつめた場所を意味する「峠」。〈山+上+下〉の文字は日本でつくられた漢字「国字」であり、〈とうげ〉の読み方は道の神に物を供えて旅の無事を祈る「手向(たむけ)」が転じたものといわれます。トンネルやバイパス道路のなかった時代、生活圏を越える移動や運搬のために、人々は峠を往来してきました。奈良と大阪を結ぶ「暗峠(くらがりとうげ)」周辺には、今もわずかながら往時の風情が残されています。
続きを読む生駒山地の南端、標高437メートルの信貴山(しぎさん)山腹にある「朝護孫子寺(ちょうごうそんしじ)」は、福徳開運を願う庶民の信仰盛んな、毘沙門天王の総本山です。寺伝では、聖徳太子が寅年 寅日 寅の刻にこの地で戦勝祈願をしたところ、毘沙門天が必勝の秘法を授けたことから、この山を「信貴山(信ずべし、貴ぶべき山)」と名付けたとされます。
続きを読む今から1280年以上前の奈良時代 天平期の前半は、大地震や飢饉、そして疫病が次々と日本を襲う多難の時代でした。なかでも万葉集に「鬼病」と書かれ、国民の3割前後が息絶えたといわれる天然痘のパンデミックが猛威をふるったのは、最初の流行から3年目の天平9(737)年のこと。主要閣僚にあたる右大臣や参議ら8人のうち5人が亡くなるという未曽有の事態に、藤原不比等の息子として絶大な権力を握っていた武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂の「藤原四兄弟」も相次いで命を落としました。 五條市にある榮山寺(えいさんじ)の「八角円堂」は、疫病で亡くなった藤原四兄弟の長子 武智麻呂の追善供養のため、その息子 仲麻呂が建立したといわれる国宝建築物です。建物の内陣には極彩色の装飾画がいまも残り、秋と春の特別拝観期間中に公開されています。
続きを読む奈良盆地のほぼ中央、磯城(しき)郡田原本町(たわらもとちょう)にある「唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡」。1991年、ここから他に類を見ない楼閣絵画土器が出土しました。屋根に渦巻き飾りがくっきりと描かれたこの土器をもとに建てられたのが、唐古・鍵遺跡のシンボル「復元楼閣」です。 今回は、今も調査発掘が続けられている唐古・鍵遺跡と、その出土物を展示する考古学ミュージアム、そして古代から現代にいたる田原本町の変遷をご紹介します。
続きを読む「生駒(いこま)の聖天(しょうてん)さん」の名で親しまれ、現世利益の絶大な信仰を集める宝山寺(ほうざんじ)。標高642メートルの生駒山中腹にある寺の境内には、明治17(1884)年に竣工した瀟洒な洋風客殿「獅子閣」があります。明治政府による迎賓館「鹿鳴館」ができた翌年に獅子閣を建てたのは、宝山寺山主に腕を見込まれた一人の宮大工でした。
続きを読む正倉院の北、佐保川の南に位置する五劫院(ごこういん)は、東大寺大仏再興に奔走した二人の高僧、重源(ちょうげん)上人と公慶(こうけい)上人ゆかりのお寺です。本尊は国の重要文化財に指定されている「五劫思惟(ごこうしゅい)阿弥陀仏坐像」。アフロヘアーの阿弥陀様として近年特に人気の高いご本尊です。非公開のため普段の拝観には予約が必要ですが、毎年8月上旬と10月5日に特別に公開されています(2021年6月現在の情報です)。
続きを読む大和盆地の東の山裾を結ぶ「山の辺の道」。日本最古といわれる古道のうち、現在ではJR桜井線(万葉まほろば線)天理駅から桜井駅の東を南北に延びる約16キロメートルがハイキングコースとして整備されています。前回ご紹介した北半分に続き、今回は天理市柳本から桜井市三輪、金屋に延びる南半分のコースをご紹介します。
続きを読む「山の辺の道」は、奈良盆地の東側、笠置(かさぎ)山地の麓に沿って春日山(奈良市)と三輪山(桜井市)を南北に結び、その名前は日本書紀や古事記にも記されています。かつて淡水湖だった大和盆地の東湖岸より標高の高い交易ルートとして発達したであろうこの古道は、奈良時代に入るとより低地に整備された上ツ道、中ツ道、下ツ道などの官道にその役割を譲っていきました。
続きを読む今年2021年は、聖徳太子(574~622)の1400回忌という節目の年にあたります。法隆寺をはじめとする太子ゆかりの寺院では、その遺徳をたたえる荘厳な遠忌(おんき=没後長い歳月を経た年忌法会)が執り行われ、奈良国立博物館ほか多くの施設で特別展が開催されるなど、普段間近にみることのできない寺宝に接する貴重な機会となっています。また入江泰吉記念奈良市写真美術館では、法隆寺昭和大修理の撮影を依頼されたこともある入江による、法隆寺の写真展が開催されます。
続きを読む万葉集の最終編纂者といわれる大伴家持(おおとものやかもち)。家持の歌は、万葉集約4500首のうち470首以上を占めており、特に20巻ある万葉集の最後の4巻は、家持の「歌日記」といえる内容になっています。また不思議なことに、家持は40歳過ぎに詠んだ歌を最後に、その後の歌を残していません。今回は後期万葉集を代表する歌人、大伴家持の生涯と、彼をとりまく人々や時代についてご紹介します。
続きを読む万葉集の魅力のひとつは、さまざまな興味に応えてくれる豊かな歌が集められていることですが、とりわけ現代人の心にダイレクトに響くのが、「相聞(そうもん)」と呼ばれる歌群です。相聞とは本来、互いの消息を確かめ合う歌全般を指しましたが、多くは男女のやりとりであることから、恋の歌の代名詞となっています。今回は、恋に「孤悲」という漢字を多く当てた万葉人の、人を恋う気持ちをたどります。
続きを読む万葉集が編まれたとされる舒明天皇時代から奈良時代後半(629~759年頃)、人々はどのようなくらしをしていたのでしょうか。天皇から庶民まで、4500余首を集める万葉集は、万葉びとのくらしの一端を知ることのできる貴重な史料でもあります。ただし、身分や地域差による生活様式の違いは歴然としてあり、加えて編纂したのは当時の上層階級にいた人たちであるため、よく言われる「国民歌集」というわけではないことは、心に留めておいた方がいいかもしれません。
続きを読む~「日本最古にして最高の歌集」~ 日本文学研究の第一人者であったドナルド・キーン氏が、「体験と心情を直截(ちょくせつ)に表現した日本最古にして最高の歌集」と賛辞した「万葉集」は、7世紀から8世紀後半までを中心に詠まれた4500余首の歌を20巻に収めた歌集です。しかし、この歌集がいつ、誰によって、どのような目的で編まれたのか明確には分かっておらず、万葉集という名前の由来も解明されてはいません。多くの謎が残されているにも関わらず、私たちに古代の様子を生き生きと伝えてくれる万葉集とは、いったいどのような歌集なのでしょうか。今回から数回、万葉集について奈良とのかかわりを中心にご紹介します。
続きを読む~平城京跡から柿の種~ 鮮やかな色と円満なかたちが、見るものを豊かな気持ちにさせてくれる柿の実。『正倉院文書』には「菓子」として取引きされていたことが記され、実際に平城京跡から柿の種も発掘されています。鎌倉時代末期の『春日権現験記』には軒下に吊るした干し柿が描かれ、続く室町時代には柿の産地として大和(奈良)の名前が登場します。
続きを読む~激動の時代に生まれた不比等~ 2020年は、平城京遷都を主導し、律令制の確立に努めた藤原不比等(ふじわらのふひと)がこの世を去って、1300年にあたります。登大路ホテル奈良の南に隣接する興福寺北円堂は、不比等供養のため元明太上天皇と元正天皇が発願して長屋王に建立を命じ、一周忌にあたる721年8月3日に完成した廟堂です(現存する北円堂は1210年の再建で国宝)。
続きを読む~古代史の舞台、葛城~ 奈良市街の見晴らしのいい場所、若草山や二月堂、あるいは奈良県庁の屋上広場などから西南方向を眺めると、二上山の南隣に、葛城山から金剛山へと連なる雄大な山並みを見渡すことができます。大阪との県境にあたるこの連山の東麓は、5世紀に栄えた葛城(かつらぎ/かづらき)氏ゆかりの地です。
続きを読む~高級麻織物「奈良晒」~ 井原西鶴(1642~1693)が最晩年に著した浮世草子『世間胸算用』(1692年)。元禄文化を代表する作家による「町人物(ちょうにんもの)」の短編集に、高級麻織物として名をはせた「奈良晒(ならさらし)」が登場します。
続きを読む~そうめん発祥の地、三輪~ つるりと喉ごし良く、夏の食卓に欠かせない手延べ素麺。 そのルーツは奈良時代に中国から伝わった「索餅(さくべい)」だといわれます。練った小麦粉を縄の形にねじった、ツイストパンのような形をした索餅は、熱病除けのまじないとして旧暦の7月7日(2020年は8月25日)に宮中の儀式の膳に供される特別な食べ物でした。
続きを読む~相撲発祥の地~ 大和葛城山から二上山(にじょうさん/ふたかみやま)の東麓に広がる葛城市當麻(たいま)地区は、奈良と大阪を結ぶ日本最古の官道「竹内(たけのうち)街道」の北にあります。今からちょうど1300年前の720年に完成した『日本書紀』には、この地出身の當麻蹶速(たいまのけはや)と出雲国の野見宿禰(のみのすくね)の力比べが記されています。これが日本の相撲の始まりであると伝えられています。
続きを読む~子規、最後の旅は奈良~ 明治期に俳句や短歌といった伝統詩を革新し、35年の短い生涯を駆け抜けていった正岡子規(まさおかしき=1867~1902)。代表句のひとつ「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は、約7年に及んだ病床生活に入る前年、奈良で詠まれたものでした。
続きを読む「平城山」の作詞者 歌人 北見志保子(きたみ・しほこ=1885~1955)の名前を知る人は、奈良でもそう多くないかもしれません。しかし、「平城山(ならやま)」の作詞者といえば、全国的にご存じの方も多いのではないでしょうか。
続きを読む~数多くの紀行文を書き残した田山花袋~ 日本の自然主義文学を確立し、多くの文学者に影響を与えた田山花袋(たやま・かたい=1872~1930)。実は『蒲団』『田舎教師』などの代表作のほかに、紀行文作家として膨大な文章を残しています。奈良へは少なくとも8回訪れたことが確認されており、その文章は、現在の私たちにも奈良の魅力を存分に伝えてくれるものです。
続きを読む~軍医総監から帝室博物館総長へ~ 明治の文豪 森鷗外(もり・おうがい=1862~1922)の晩年と奈良には、深い関わりがあります。亡くなる直前を含め、4年半の間の来寧は5回に及び、鷗外は「奈良五十首」という短歌の連作を残しました。
続きを読む~聖武天皇の御忌法要~ 4月になると、奈良の町のあちらこちらで「聖武祭」と書かれた赤い張り紙を見かけるようになります。毎年5月2日と3日に営まれる「聖武天皇祭」と「山陵祭」は、天平勝宝8(756)年5月2日に崩御した聖武天皇の遺徳を偲んで営まれる御忌法要です。東大寺を建立し、大仏造立の詔を発し、その遺愛の品が正倉院に数多く残される聖武天皇の治世は、地震や疫病にみまわれた多難の時代でした。
続きを読む~ならまちとは違う表情「きたまち」~ 登大路ホテル奈良や近鉄奈良駅の北に広がる、通称「きたまち」。奈良の北の玄関口として、ならまちとはまた違った趣きのエリアです。商店街の突き当たりにある奈良女子大学は、江戸北町奉行所の倍以上の広さを誇った奈良奉行所跡に建てられており、女子大の前身である奈良女子高等師範学校は、1908年に日本で二番目に設置された女子教員養成学校でした。旧本館である記念館は、きたまちのシンボル的建物のひとつであり、入口横の守衛室とともに、国の重要文化財に指定されています。
続きを読む~社家の町、上高畑町~ 奈良市高畑町のうち飛火野園地の南、春日山の西南麓にあたる上高畑(かみたかばたけ)の一帯は、かつて「春日禰宜町御赦免地」と呼ばれた社家(神官の家柄)の町でした。現在も閑静な邸宅が並び建つこの地に、「小説の神様」として知られる志賀直哉(1883~1971年)が自邸を建てたのは、今から90年余り前の昭和4(1929)年のことです。
続きを読む~奈良人形の源流~ 力強く彫り上げた断面に華やかな彩色が繊細にほどこされた、奈良を代表する伝統工芸品のひとつが、「奈良人形」またの名を「奈良一刀彫(いっとうぼり)」です。その源流は古く、保延2(1136)年に始められた「春日若宮おん祭」の「田楽座(でんがくざ)」にあるといわれています。
続きを読む~地中に眠っていた都~ 天平文化が花開いた「平城京(へいじょうきょう)」は、今から1300年以上前の710年に唐の長安をモデルに設計された都です。その中央北寄りにある「平城宮(へいじょうきゅう)」は甲子園球場の約30倍の面積を持ち、政治や儀式の場である大極殿や天皇の住まいである内裏、役所などが建ち並ぶ都の中心区画でした。
続きを読む~奈良の名物「きな粉雑煮」~ お正月のおせち料理はお取り寄せで楽しむという風潮がみられる中でも、お雑煮はご自宅で用意される方が多いのではないでしょうか。地域やご家庭によって千種万様のお雑煮は、商品にするのは難しいのかもしれません。奈良県内のお雑煮もそれぞれに特色があります。なかでも驚かれるのが、お砂糖をたっぷり混ぜたきな粉に雑煮餅をつけて食べる、「きな粉雑煮」です。
続きを読む「大和の金は今井に七分」 近鉄八木西口駅を南西へ進み、飛鳥川に架かる朱塗りの蘇武橋(そぶばし)を渡ると、樹齢430年を超えるエノキの大木の奥に、漆喰壁と瓦屋根が美しい「今井町(いまいちょう)」の町並みが目に入ります。かつて「大和の金は今井に七分」(奈良の財産の七割は今井に集まっている)とうたわれた橿原(かしはら)市今井町のほぼすべては、伝統的建造物群保存地区のうち特に価値が高い「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。大和三山のひとつ畝傍山(うねびやま)に近い東西600メートル南北350メートルの旧環濠内には、今もおよそ500軒の町家が連なり、多くの人々がこの町で生活しています。日々のくらしと歴史的な景観が広域に共存している稀有な町、それが今井町です。
続きを読む~めずらしい一月五日の「初えびす」~ 三箇日の賑わいもさめやらぬ1月4日と5日に、奈良町の路地にある小さなお社「南市(みなみいち)恵毘須神社」では「初えびす」が行われます。商いの神様といわれる「えびす様」に招福や商売繁盛を祈り、笹の枝先に縁起物をつけて持ち帰る祭りは関西より西によく見られます。「十日戎」などと呼ばれるとおり、多くは1月10日を中心に行われるのですが、南市の初えびすは「五日戎」とも呼ばれ、一般的なお祭りより早い理由はなぜでしょうか。
続きを読む~王寺町と聖徳太子~ 佐保川や飛鳥川など大和川水系の河川が合流し、大阪へと流れる県境に位置する王寺町。町の名前は、聖徳太子建立ともいわれる「片岡王寺」に由来するとされています。生駒山地の南端と金剛山地の北端が接する場所でもあり、古代から水陸ともに交通の要衝として重要な位置を占めてきました。近年では、大阪の天王寺駅まで約20分という利便性から、ベッドタウンとして人口を増やす一方、「雪丸(ゆきまる)」「達磨」をキーワードにした、聖徳太子ゆかりの里としての一面が注目を集めています。これらの縁起を伝えてきた中心地が、達磨大師と聖徳太子、千手観音菩薩の三尊を本尊とする、「片岡山 達磨寺(だるまじ)」です。
続きを読む~日本で独自の発展を遂げた奈良筆~ 弘法大師 空海が、唐から持ち帰ったとされる筆の製法。当時、仏教の研究に励む奈良の学僧たちにとって、筆は必需品でした。日本の筆づくりは、空海が奈良の坂名井清川(さかない・きよかわ)に、その作り方を伝授したことにはじまるといわれます。やがて、漢字をくずして丸みを帯びた「かな文字」が日本固有の文字として発生すると、しなやかで美しい文字を書くために、より繊細な筆が求められるようになりました。こうして、大陸の文化を取り入れる中にも独自の発展を遂げてきたのが、現在、伝統的工芸品に指定されている「奈良筆」です。
続きを読む~世界各国から収集した約30万点の資料を所蔵~ 奈良市の南に位置し、数多くの史跡が残る天理市。「天理大学附属 天理参考館」は、奈良盆地東縁を結ぶ古道「山の辺の道」と、現在の国道169号線にあたる古代の官道「上ツ道(かみつみち)」に挟まれた布留(ふる)川のほとりにあります。あたりは旧石器時代以降の遺物が数多く出土する「布留遺跡」の一部であると同時に、独特の建築様式が目を引く天理教の主要施設が建ち並ぶエリア。天理市という名前は、1954年の町村合併の折に宗教団体名を冠して付けられた全国で初めての市名だそうです。1930年に設立された天理参考館は、世界各国から収集した約30万点の資料を所蔵し、うち約3,000点を常時展示しており、県立の歴史博物館がない奈良で世界の生活文化と考古美術資料に触れることのできる貴重な博物館として広く一般に開かれています。
続きを読む~奈良漬の概念を変える唯一無二の味~ 奈良市内の目抜き通り三条通。多くの人たちが行き交うこの通りに、「奈良漬 元祖製造元」の看板を掲げる今西本店があります。今西家のルーツは古代にさかのぼるため創業は不詳ですが、この場所に出店を構えた江戸末期を開店として、現在5代目の今西泰宏氏が伝統の味を守っています。普段目にすることの多いあめ色の奈良漬とは一線を画す、黒くつややかな奈良漬には、「純正奈良漬」の名にふさわしい唯一無二の滋味が詰まっています。
続きを読む~万葉集にも詠まれた薬猟の地~ 奈良盆地の東南、桜井市と三重県名張市の間に位置する宇陀市は、菟田野町、大宇陀町、榛原町、室生村の4つの町村が合併して2006年にできた、県内6位の面積を持つ自治体です。市域の西南を占める大宇陀地区は、近鉄榛原駅から宇陀川の流れを7キロほど南へ辿った場所にあり、又兵衛桜や大宇陀温泉あきののゆ、うだ・アニマルパークなど人気スポットの集中するエリアです。
続きを読む~東大寺を守護する八幡神~ 東大寺の境内には大小さまざまな神社が散在し、今も大切に守られているのをご存じでしょうか。明治政府が出した神仏分離令以前の日本には、神社に付属した神宮寺、あるいは寺院をまもる鎮守神のように、ごく自然に神仏習合の信仰が根付いていました。「手向山(たむけやま)八幡宮」もまた、明治以降分離独立することとなりつつも、東大寺とともに歩んできた神社です。その由緒は今から1270年前の天平勝宝元年(749年)、聖武天皇が大仏造立にあたり、現在の大分県から宇佐八幡大神を迎えて東大寺の守護神としたのが始まりといわれ、日本における神仏習合の先駆けでもありました。
続きを読む~物流の拠点だった京終駅~ 登大路ホテル奈良からほぼ真南へ2キロメートル足らず、JR桜井線(万葉まほろば線)の「京終(きょうばて)駅」が開業したのは、現在のJR奈良駅より1年早い1898年。当時は桜井と奈良を結ぶ終着駅でした。奈良町南端に接する一帯は古くから物流拠点としてにぎわい、1919年には東部山間の特産品や物資を運搬するロープウェイ「奈良安全索道」が竣工、その後都祁(つげ)まで延伸し、約17キロメートルを110本以上の鉄柱がつないでいたそうです。
続きを読む~春日大社の禰宜団扇がルーツ~ 近鉄奈良駅から小西さくら通りを南に抜け、三条通りを西へ曲がってしばらく進むと、ショーウィンドウに涼し気な団扇や扇子が並ぶ、「池田含香堂(いけだがんこうどう)」の看板が目に入ります。色鮮やかな和紙にこまやかな透かし彫りが施された「奈良団扇(ならうちわ)」は、奈良県伝統的工芸品に指定されています。
続きを読む~巨大松明の豪快な火祭り~ 畝傍山の西へ2キロ足らずの場所に位置する橿原市東坊城(ひがしぼうじょう)町。室町時代から今に残る古い地名であるこの地で、毎年8月15日に行われる豪快な火祭りが、「東坊城のホーランヤ」です。奈良県無形民俗文化財に指定されているこの伝統行事には、圧倒的な大きさでありながら、丸みをもったフォルムにどこか愛らしさが感じられる大松明が登場します。
続きを読む~奈良を「酷愛」した會津八一~ 奈良を愛した数多くの文化人の中で、自ら奈良を「酷愛」する(極端に愛する)と言ってはばからなかったのが會津八一(あいづ・やいち=1881~1956)です。美術史家であると同時に、「秋艸道人(しゅうそうどうじん)」の筆名で書家、歌人の顔を持つ八一は、奈良の歌を数多く詠みました。自筆の文字を刻んだ歌碑は、現在県下に20基ほど確認することができます。今回は登大路ホテル奈良から徒歩圏内にある、奈良公園周辺の會津八一歌碑5基をご紹介します。
続きを読む~平城京の北に連なる水辺の風景~ 平城宮跡に復元された大極殿の北側一帯に、奈良にはめずらしい水辺の風景が広がります。東はJR大和路線(関西本線)と国道24号線、西はおおよそ近鉄京都線までの一帯を、古くから「佐紀(さき)」と呼び、その多くが「歴史的風土保存地域」に指定されています。『続日本紀』に「松林苑(しょうりんえん)」と記載された広大な奈良時代の離宮跡であると同時に、さらに古い時代の大型古墳や池が今も姿をとどめる歴史の道です。
続きを読む~奈良とお茶~ 日本で最初にお茶をふるまったのは、天平元年(729年)に僧侶百人に「行茶(ぎょうちゃ)」を催した聖武天皇だといわれています。その約20年後、東大寺の大仏建立に関わった僧、行基による施茶の記録もあります。9世紀初め、弘法大師空海が唐から茶の種子と茶臼を持ち帰ったと伝わるのは、県東部に位置する宇陀の仏隆寺。12世紀末に喫茶を広めたといわれる栄西は、唐から茶を持ち帰ったあとに東大寺大仏再建の勧進職も務めるなど、奈良と多くのかかわりを持っています。さらに時代は下って15世紀後半、「わび茶」の創始者とされる村田珠光は現在の奈良市出身。その珠光が考案したといわれる「茶筌」は、国の伝統的工芸品として県北西部の生駒市高山地区でつくり続けられています。奈良とお茶とのかかわりなくして、日本のお茶の歴史は語れません。
続きを読む~東大寺に隣接する手入れの行き届いた日本庭園~ 登大路ホテル奈良を出て東へ、県庁横に新しくできた奈良公園バスターミナルの北東角にある「登大路町」の信号を東へ渡ると、白壁が続く道の奥に、若草山が迫ってくるように見えてきます。一帯を水門町(すいもんちょう)と呼ぶのは、春日山原始林に源を発し、東大寺南大門の南をたどる「吉城川(よしきがわ)」の水量を調節する門があったことに由来するのだとか。万葉集にも詠まれたこの吉城川の美しい水を取り入れてつくられたのが、奈良随一の名園といわれ、古今さまざまな文人に愛されてきた日本庭園で国指定の名勝である「依水園(いすいえん)」です。
続きを読む奈良の魅力のひとつ、それは町のほどよい大きさです。登大路ホテル奈良と興福寺の南に広がる「ならまち」と呼ばれる、およそ1キロメートル四方のエリアと、JR奈良駅周辺や近年人気の「きたまち」エリアを含めても、2キロメートル四方ほどの空間に多くのお店があつまり、奈良の人たちがくらしています。人通りの多い道からすこし脇へ入ると、あちらこちらに懐かしい雰囲気の路地があります。今回は、そんな路地で「奈良の時間」を堪能できる、すてきな3つのお店をご紹介します。
続きを読む~近鉄奈良駅すぐの静かな神社~ 近鉄奈良駅を出て西へすぐ、東西を走る大宮通りと南北に伸びるやすらぎの道の交差点「高天(たかま)」を南に入ってほどなく、建物に挟まれるように「漢國(かんごう)神社」の朱塗りの鳥居が立っています。平城京遷都より100年以上さかのぼる推古天皇元年(593年)、勅命により園神(そのかみ)を、のち養老元年(717年)に藤原不比等によって韓神(からかみ)を祀った、奈良で一番古い神社です。
続きを読む~5キロにわたって続く桜並木~ 奈良の桜の名所といえば、「一目千本」とうたわれる吉野山を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。シロヤマザクラを中心とした3万本ともいわれる桜が、下千本、中千本、上千本、奥千本と呼ばれる地帯を順に染め上げてゆく光景は、古代から現代まで多くの人々に愛されてきました。
続きを読む~待ち合わせの目印「行基さん前」~ 近鉄奈良駅の地下改札から、登大路ホテル奈良の方へ向かって東の階段を上ると、頂きに銅像の立つ噴水が目に入ります。赤膚焼の銅板を積み上げた円錐形の台座の上から、「ある方角」を見つめているのは、「菩薩」の称号を得た奈良時代の高僧、行基(ぎょうき)です。待ち合わせ場所として有名なこの場所を、奈良の人たちは親しみを込めて「行基さん前」と呼びます。
続きを読む~正倉院宝物と北村家~ 天平時代を中心とする美術工芸品の粋を集めた正倉院宝物。その修理や模造復元が本格的に始められたのは、今から約150年前の明治時代初期のことです。近代国家として美術工芸品の保護と制作の奨励をはかった明治政府は、奈良博覧会を開催。正倉院宝物も出陳され、大変な人気を博しました。この頃、修理や復元を通して「奈良漆器」の名前を世に広めたのが、春日大社や東大寺、興福寺の御用塗師を父に持つ吉田立斎(りっさい)です。立斎の弟で、母方の姓を継いだ北村久斎(きゅうさい)もまた、早くから漆芸の道に進み独立、その息子の大通(だいつう)は作家として工芸界にデビューするとともに、正倉院宝物をはじめ當麻曼荼羅厨子の修理など多くの業績を残しました。 連綿と続く漆芸一家に育ち、「螺鈿」の技術によって初めて重要無形文化財保持者、いわゆる「人間国宝」の認定を受けたのが、大通の息子である北村昭斎(しょうさい)氏です。
続きを読む- 安倍氏一族の氏寺として645年に創建 - JRと近鉄が隣接する桜井駅の南口から伸びる並木通りを南下し、国道165号線を越えると、日本三文殊第一霊場として知られる「安倍文殊院」のある小高い丘が右手に見えてきます。南へ下れば飛鳥や多武峰、西へ進めば藤原京へとつながるこの地を本拠としていたのが、遣唐使として海を渡った阿倍仲麻呂や、陰陽師(おんみょうじ)として活躍した安倍晴明を輩出した安倍氏一族です。645年に文殊院にほど近い南西の平地に創建された安倍寺は、金堂や塔、回廊などを持つ立派な伽藍でしたが、兵火などにより廃絶し、今ではその一部が「国史跡 安倍寺跡」に指定され公園になっています。
続きを読む~千年以上の時を経て残る墨~ 2018年秋の第70回正倉院展には、墨で描かれた風景がきわやかに残る「山水図」が出陳されました。千年以上の時を経て私たちを魅了する宝物、あるいは仏像や経典さらには木簡や書状など、墨はありとあらゆる歴史的産物に使われ、その年代や内容を私たちに伝えてくれます。現在、日本の墨の9割以上は奈良でつくられています。奈良町の一画にある「松壽堂(しょうじゅどう)」では、伝来の秘法に時代に応じた技術を取り入れながら、墨づくりが受け継がれています。
続きを読む奈良のやきものといえば、愛らしい「奈良絵」が描かれた「赤膚焼(あかはだやき)」を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。実際には赤膚焼イコール奈良絵でもなく、絵付けのないものや釉薬の違いによって、赤膚焼はさまざまな表情をみせてくれます。
続きを読む節分とは、もともと季節の移り変わるとき、つまり立春、立夏、立秋、立冬の前日のことを指しますが、とくに立春の前日、毎年2月3日頃に社寺や各家庭で行われる行事を「節分会」「追儺(ついな)」「鬼やらい」などと呼ぶようになりました。追儺は古く宮中で行われていた大晦日に悪鬼を追い払う行事で、近世以降、民間に広まって、鬼を追い、豆をまき、邪気を払うという流れが定着したようです。奈良県各地には独特の節分行事の伝わる場所が数多く残っています。
続きを読む近鉄生駒駅から歩道橋を150メートルほど南西に進むと、2018年8月に開業100周年を迎えた生駒ケーブルの鳥居前駅があります。山上にある遊園地のキャラクターにちなんだ愛らしい車両が走るこのケーブルは、生駒山中腹にある宝山寺(ほうざんじ)への参拝客を運ぶために敷設された、日本初の営業用ケーブルです。「鳥居前」という駅名は、1982年まで駅の横にあった大鳥居に由来します。
続きを読む人類の歴史と文化の中で、重要な役割を担ってきたお酒。それぞれの国の主食を原料として、気候や風土に根差した独自のお酒が生み出されてきました。日本では遅くとも縄文時代中期に、果実だけでなくデンプンを原料としたお酒が造られていたのだとか。また、穀類や芋類などを口に入れ、よく噛んで発酵させる「口噛みの酒」は、神聖な飲み物として古代の神事で使われることがあったようです。
続きを読む奈良時代の718年、長谷寺の徳道上人(とくどうしょうにん)が夢のお告げによって草創したと伝わる日本最古の巡礼路(みち)「西国三十三所」。和歌山県の青岸渡寺を第1番、岐阜県の華厳寺を第33番として、近畿一円に33か所ある観音信仰の霊場のことです。2018年は、草創から1300年を迎える記念の年にあたり、特別拝観などの記念事業が各寺で行われています。
続きを読む富雄川(とみおがわ)の最上流に位置し、山里の風情を今に残す生駒市高山(たかやま)町。大阪や京都に隣接する歴史あるこの地に連綿と受け継がれてきたのが、茶道に欠かすことのできない「茶筌(ちゃせん)」づくりです。茶道の創始者は、奈良生まれの村田珠光(じゅこう)。僧であり茶人であった珠光は、高山一帯を治めていた鷹山(たかやま)城主の次男・宗砌(そうせつ)の友人でした。
続きを読む2018年は「古都奈良の文化財」が世界遺産に登録されて20年の節目の年に当たります。世界遺産とは、1972年にユネスコで採択された世界遺産条約に基づき、世界遺産リストに登録された「顕著で普遍的な価値」を持つ文化遺産と自然遺産のこと。「古都奈良の文化財」は、710年に開かれた平城京を語る上で欠くことの出来ない8つの資産群、「東大寺・興福寺・春日大社・春日山原始林・元興寺・薬師寺・唐招提寺・平城宮跡」からなる世界文化遺産として、
続きを読む蓮糸で一夜にして「當麻曼荼羅(たいままんだら)」を織り上げたといわれる中将姫(ちゅうじょうひめ)。その中将姫が生まれ育ったと伝わる場所が、現在の奈良町界隈にあるということをご存じでしょうか。中将姫が生まれたのは、東大寺の大仏開眼より5年早い天平19(747)年。父は藤原不比等(ふじわらのふひと)の孫にあたり、聖武天皇のもとで右大臣を務めた藤原豊成(ふじわらのとよなり)です。
続きを読む奈良市内の大通りから西を眺めると、意外に近く見える生駒山(いこまやま)。空気の澄んだ夕方には、登大路ホテル奈良の前の通りからも、山腹の街灯がきらきらとかがやいて見えることがあります。奈良県の北西、大阪府との県境にあるこの山の麓に、古来信仰を集める往馬大社(いこまたいしゃ)があります。
続きを読む奈良の夏の暑さは格別です。特に主要観光地の多い奈良市中心部は奈良盆地の北に位置し、盆地特有の湿気と高温に夏バテ気味の鹿たちを見かけることもしばしば。一方で奈良公園や春日原生林、寺院のおかげで緑の多い奈良の夏は、一年中で最も生命力あふれる季節でもあります。今回は広大な境内を夏でも楽しく巡ることのできる、朝と夕そして夜の東大寺をご案内します。
続きを読む中秋の名月とは旧暦8月15日に観られる月のことで、毎年9月中旬から10月初旬あたりを変動します。奈良では、各地の社寺や景勝地で観月会が催されますが、中でも三条通をはさんで興福寺の南に位置する猿沢池から観る月の美しさは、「猿沢池の月」として「南都八景」のひとつに数えられています。
続きを読む奈良市の西南に位置する大和郡山市は、郡山城を中心に発展した城下町です。1580年に戦国大名・筒井順慶によって築かれた城は、豊臣秀吉の弟・秀長によって大きく拡張整備されました。1724年に入城した柳沢家の治世は6代約150年間続き、藩主の庇護のもと、赤膚焼や金魚の養殖など大和郡山を代表する文化的産業が育ちました。
続きを読む近鉄大和八木駅の東南に位置する橿原市八木町。奈良盆地を南北に貫く下ツ道(しもつみち)と、東西をつなぐ日本最古の官道・横大路(よこおおじ)が交差し、古くから交通の要衝として知られた町です。お伊勢参りや吉野・大峯への巡礼など、多くの旅人が行き交い賑わった道を、俳聖・松尾芭蕉も歩きました。
続きを読む奈良盆地の東縁、「青垣山」と詠われて幾重にも連なる山々の麓に、奈良と三輪を結ぶ古道「山の辺の道」があります。桜井市にある大神(おおみわ)神社から、摂社・狭井(さい)神社の前を過ぎ、石畳になっている山の辺の道を数分歩くと、白壁に囲まれた「月山(がっさん)日本刀鍛錬道場・記念館」に到着します。手前には狭井川が流れ、土手には「三枝祭」に奉献されるささゆりが育てられている静かな場所です。
続きを読む春日山を源流とする清らかな川の流れが、古く万葉集にも詠まれている率川(いさがわ)。現在は、大部分が地下水路となってしまいましたが、猿沢池の西南にある小さな石橋「嶋嘉橋(しまがばし)」周辺は、往時を思わせるたたずまいを残しています。さらに猿沢池から西、三条通の一筋南をゆるやかに蛇行する小径の地下には、今も率川がひっそりと流れており、南北にのびる商店街を横切りながら西へ400メートルほど道なりに進み、石柱が残る率川橋跡を抜けると、幹線道路「やすらぎの道」の西に面した神社の玉垣が目に入ります。
続きを読む平城宮跡の西を南北に流れる秋篠川。川の流れに沿って遊歩道を南へ進むと、「西ノ京」と呼ばれる地域のおちついた景色の先に、三重塔が見え隠れしてきます。近鉄橿原線・西ノ京駅のすぐ東に位置する薬師寺は、白鳳文化の華やかな698年に飛鳥に創建され、710年の平城遷都に伴い現在地に壮大な伽藍を築いたといわれます。古い歴史を持つ薬師寺で、とりわけ大切にされてきた年中行事が、3月25日から7日間にわたって行われる「花会式(はなえしき)」です。
続きを読む平城京の「東」にある「大寺」という意味を持つ「東大寺」は、仏法により国を護ろうと、8世紀半ばに創建された官立の寺院です。登大路を道なりに東へ進み、「大仏殿」の交差点を北に折れて国宝建造物「南大門」をくぐると、前方にそびえ立つ大仏殿を中心にして、広大な敷地に数多くの伽藍が点在しています。
続きを読む奈良公園の東に位置する若草山(別名・三笠山)は、標高342メートル・面積33ヘクタールと小ぶりでありながら、奈良の市街地からはもちろん、薬師寺・唐招提寺のある西ノ京エリア、さらには大阪との県境にある生駒山からもすぐに見つけることのできる、存在感のある山です。
続きを読む12月17日午前零時。すべての灯りが消された浄らかな闇の中、「若宮様(わかみやさま)」の1年に1度、24時間の旅がはじまります。春日大社本殿南東にある若宮社から一の鳥居東にある「御旅所(おたびしょ)」まで、若宮を遷す「遷幸(せんこう)の儀」は、撮影はもちろん、懐中電灯を点すことさえ禁じられた神秘の行事。
続きを読む定員(ドライバー含む:4人)
荷物積載量目安:スーツケース2個
定員(ドライバー含む:4人)
荷物積載量目安:スーツケース2個
定員(ドライバー含む:6人)
荷物積載量目安:スーツケース2個
定員(ドライバー含む:8人)
荷物積載量目安:スーツケース5個
定員(ドライバー含む:9人)
荷物積載量目安:スーツケース6個
定員(ドライバー含む:4人)
荷物積載量目安:スーツケース2個
定員(ドライバー含む:4人)
荷物積載量目安:スーツケース2個
定員(ドライバー含む:4人)
荷物積載量目安:スーツケース2個