森鷗外と奈良

晩年の森鷗外が毎秋訪れた正倉院

森鷗外と奈良

軍医総監から帝室博物館総長へ

明治の文豪 森鷗外(もり・おうがい=1862~1922)の晩年と奈良には、深い関わりがあります。亡くなる直前を含め、4年半の間の来寧は5回に及び、鷗外は「奈良五十首」という短歌の連作を残しました。

江戸時代末期、津和野藩(現在の島根県南西部)の御典医を代々務める森家に生まれた森鷗外 本名林太郎(りんたろう)は、幼少より漢籍に親しみ、10歳で上京しドイツ語を学習、12歳で現在の東京大学医学部(第一大学区医学校予科)に最年少入学を果たす秀才で、「古今集」や「唐詩選」などを熱心に読む文学少年でもありました。大学卒業後は陸軍軍医として勤務、衛生学を学び伝染病にも詳しく、極度の潔癖症から野菜や果物まで茹でて食べるほどだったとか。鷗外の子どもたちのエッセイには、ご飯の上にお饅頭を載せ、熱い煎茶をかけるという鷗外の風変わりな好物、「饅頭茶漬け」のことが書かれています。

翻訳家や小説家としておびただしい創作活動を行いながら、軍医の最高位である陸軍軍医総監、陸軍省医務局長まで上り詰め、54歳でその職を退いた鷗外ですが、わずか1年半後の大正6(1917)年12月に帝室博物館総長兼図書頭(ずしょのかみ)に任命され、その頃、まだ整備の行き届かなかった博物館の改革を託されます。当時宮内省(現宮内庁)所管であった帝室博物館の総長とは、現在の東京、京都、奈良の3つの国立博物館館長にあたり、正倉院の開扉立ち合いも職務のひとつでした。以後亡くなるまで、鷗外は毎年晩秋になると、奈良にひと月ほど滞在することになりました。

鷗外が総長時には本館だった、奈良国立博物館「なら仏像館」

鷗外が総長時には本館だった、奈良国立博物館「なら仏像館」

正倉院開扉のため奈良へ

大正7(1918)年11月3日日曜早朝、鷗外は正倉院の開扉と曝涼(ばくりょう=虫干しのこと)のため、東京駅を出発しました。京都で乗り換え、奈良停車場で降車し、その日の午後11時頃に官舎に到着したことが、日記「委蛇録(いだろく)」に漢文調で淡々と書かれています。

 木津過ぎて網棚(あみだな)の物おろしつつ
  窓より覗く奈良のともし火 
  (奈良五十首/4首目)

「奈良五十首」は、鷗外の4回にわたる来寧時の歌をまとめたものです。2回目以降は夜行列車で東京を発ち、翌朝から京都で古書店巡りなどをして午後には奈良へ入りました。奈良の1駅手前である木津駅を過ぎ、窓から夜の奈良の灯りが見えるこの歌は、新しい任務に向かう鷗外の気持ちと、徐々に近づいてくる奈良の風景の合いまった、物語の初めにふさわしい動きのある一首です。

鷗外の書込みがある「奈良市街全図 実地踏測」(東京大学附属図書館蔵、1918年6月大阪和樂路屋発行)

鷗外の書込みがある「奈良市街全図 実地踏測」(東京大学附属図書館蔵、1918年6月大阪和樂路屋発行)

奈良国立博物館の北東角にある「鴎外の門」

奈良国立博物館の北東角にある「鴎外の門」

約1か月を過ごす官舎は、帝室博物館の敷地内にありました。鷗外が使っていた地図には、「博物館事務所」「博物館官舎」等、自筆の書き込みが残っています。現在の国立奈良博物館新館の北東にあたるこの場所には、官舎の門のみが残されています。隣にある「鷗外の門」と刻まれた石碑には、

 猿の来(こ)し官舎の裏の大杉は
  折れて迹(あと)なし常なき世なり 
  (奈良五十首/8首目)

の歌が紹介されています。猿も遊びに来た大きな杉が、翌年には折れてなくなっていた…。年に一度の訪問者として、その無常を強く感じる鷗外のまなざしは、一方で悠久の昔から変わらない奈良の風景にも向けられます。

 夢の国燃ゆべきものの燃えぬ国
  木の校倉(あぜくら)のとはに建つ国 
  (奈良五十首/10首目)

大正7年は、米騒動や第一次世界大戦の終結、そして3年にも渡り多くの人々の命を奪った疫病「スペイン風邪」の日本初上陸などが次々と社会を揺るがす激動の年でした。「燃ゆべきもの」であるはずの「木の校倉」つまり正倉院が、数えきれない災害や戦禍に耐え、永久に守られ、目の前に建っている「夢の国」のような奈良。この歌は、正倉院と正倉院を守り続けた奈良の人々に対する、鷗外の畏怖のような、祈りのような気持ちが詠われているのかもしれません。 

正倉院 正倉

正倉院 正倉

鷗外と短歌、「奈良五十首」

小説や詩、翻訳作品が有名な鷗外ですが、万葉集にも親しみ、日露戦争従軍中に戦地で創作した詩歌を『うた日記』として本にまとめるなど、数多くの短歌を残しています。45歳から数年間は自宅で「観潮楼歌会(かんちょうろうかかい)」を開催し、与謝野寛(鉄幹)や佐佐木信綱など名だたる歌人たちが集うサロン主人の役目も果たしていました。

「奈良五十首」は、大正11(1922)年1月発行の歌誌「明星」に鷗外本名のイニシャル「M・R」の名で発表されました。

  

 勅封の笋(たかんな)の皮切りほどく
  鋏の音の寒きあかつき 
  (奈良五十首/9首目)

東大寺大仏殿の北西にある正倉院で、年に一度行われる「開封の儀」。宝庫の鍵は筍(笋)の皮で包まれた勅封とともに麻縄で結ばれており、それを鋏で切りほどく澄んだ音が、晩秋を迎えた早朝の奈良に響くさまを格調高く詠んだ秀歌です。大正7年11月5日の日記には、正倉の北倉を開封した際、鑰筐(やくこう=鍵を入れる箱)の中からヤモリが一匹飛び出したが、官吏は「毎年のことです」と事も無げに言ったというユーモラスな出来事も記されています。正倉院の歌は最も多い15首に及び、仏教に深く帰依した聖武天皇への思いのほか、見学資格を得たというだけで正倉院を訪れる政治家の態度への批判的心情を込めた歌なども含まれています。

鷗外の「奈良五十首」については、日本文学研究者の平山城児氏による『鷗外「奈良五十首」を読む』(中公文庫 2015)の中で詳細に読み解かれています。ときに難解といわれる歌の背景なども丹念に掘り起こされており、50首のうち6首詠まれている興福寺の慈恩会では、実際に追体験した平山氏が、鷗外の堂内滞在時間を推定するなど、一味違った奈良を楽しむことのできる労作です。

雨の奈良を巡る鷗外

奈良滞在中の鷗外は、頻繁に家族に手紙を書き送っています。15歳の長女茉莉(マリ)、まだ9歳の次女杏奴(アンヌ)と7歳の息子類(ルイ)に宛てた手書きの地図には、奈良の名所や「パパノヰルトコロ」(官舎)から「パパノデルヤクショ」(正倉院)までの道のりが分かりやすく書かれ、「ナラノ シカ ハ カスガジンジャ ト イフ オヤシロ デ カツテ ヰルノデス。パパノ トマッテヰルトコロヲデテ 右へイケバ カスガデ…」など、手紙からは子煩悩だった鷗外の素顔が垣間見えます。

 晴るる日はみ倉守(も)るわれ傘さして
  巡りてぞ見る雨の寺寺 
  (奈良五十首/21首目)
   
 とこしへに奈良は汚さんものぞ無き
  雨さへ沙(すな)に沁みて消ゆれば 
  (奈良五十首/22首目)

晴れの日は正倉院に詰めるため、仕事の合間を見つけて巡る鷗外の奈良歩きは、歌の通りもっぱら雨の日でした。しかし東京と違って奈良の土はぬかるまず、水はけが良いので歩きやすいと言い、着物をたくし上げてあちこち出歩いた様子が、日記や手紙に残ります。

「南都小記」部分(東京大学附属図書館蔵)

「南都小記」部分(東京大学附属図書館蔵)

また、「寺院」「建築」「芸術」「仏経」などの項目に分けた覚書き「南都小記」や、鷗外の書込みがある「奈良市街全図 実地踏測」などは、東京大学附属図書館のウェブサイト「鷗外文庫書入本画像データベース」で閲覧することが可能です。

「奈良五十首」は、ほかにも東大寺、元興寺址、般若寺、新薬師寺、大安寺、百毫寺などに関する歌などから構成されています。しかし、単に社寺や風景を詠んだだけではなく、当時の人物や世の中の出来事に関する歌も少なからず詠み込まれ、社会を俯瞰した目で見つめる鷗外の姿が浮かんできます。

 現実の車たちまち我を率(ゐ)て
  夢の都をはためき出でぬ
  (奈良五十首/50首目)

 

「奈良五十首」を発表して約半年後の大正11(1922)年7月9日、鷗外は帝室博物館総長職に就いたまま、60歳で帰らぬ人となります。「奈良五十首」は、文豪 森鷗外の最後の文学作品であり、その緊張感に満ちた構成と美しい韻律によって、私たちに当時の奈良のさまざまな姿を伝えてくれます。

奈良と鷗外に関する参考文献など

『鷗外「奈良五十首」を読む』平山城児著 中公文庫(中央公論社) 2015
『奈良 近代文学の風景』林貞行著 青垣出版 2012
『文学でたどる 世界遺産・奈良』浅田隆・和田博文編 風媒社 2002
『奈良国立博物館の名宝―1世紀の軌跡―』奈良国立博物館 1997
『奈良近代文学事典』浦西和彦・浅田隆・太田登編 和泉書院 1989
『文学探究 奈良大和路』植西耕一著 奈良新聞社 1989
『奈良と文学―古代から現代まで』帝塚山短期大学日本文芸研究室編 和泉書院 1988
『奈良県史9文学―風土と文学』名著出版 1984
『虚無からの脱出―森鷗外』吉野俊彦著 PHP研究所 1980
『父親としての森鷗外』森於菟 筑摩書房 1969
『鷗外全集』全38巻 岩波書店 1971~1975
『鷗外選集』第10巻(1979)に「奈良五十首」、第21巻(1980)に「委蛇録」掲載
東京大学附属図書館鷗外文庫書入本画像データベース
https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/ogai/page/home 

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