北見志保子と奈良

歌人 北見志保子に関する書籍

北見志保子と奈良

東大寺 国宝法華堂(三月堂)

東大寺 国宝法華堂(三月堂)

「平城山」の作詞者

歌人 北見志保子(きたみ・しほこ=1885~1955)の名前を知る人は、奈良でもそう多くないかもしれません。しかし、「平城山(ならやま)」の作詞者といえば、全国的にご存じの方も多いのではないでしょうか。

人恋ふはかなしきものと平城山にもとほりきつつ堪へがたかりき 
古(いにし)へもつまを恋ひつつ越えしとふ平城山のみちに涙おとしぬ

※もとほり(巡り、回り)きつつ=さまようように往き来して

仁徳天皇皇后磐之媛の歌として万葉集に残される「君が行き 日(け)長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ」を彷彿させる恋情と、声楽曲に秀作の多い平山康三郎作曲の余情深い旋律とが相まった名曲の背景には、志保子の人生そのものがありました。

「平城山」の舞台といわれる仁徳天皇皇后磐之媛陵

「平城山」の舞台といわれる仁徳天皇皇后磐之媛陵

上京、苦悩、出会い

1885(明治18)年、高知県宿毛村(現宿毛市)に、本名川島朝野(かわしま・あさの)として生まれた北見志保子。志保子の父は、板垣退助に心酔して全国を奔走する自由民権運動の活動家で、志保子が14歳のときに客死してしまいます。長女の志保子は進学をあきらめ、小学校高等科を卒業後、尋常小学校の準教員となり家計を支えることに。しかし文学への夢は捨てがたく、1906(明治39)年、21歳のときに上京します。

上京後の志保子が精神的支えとしたのが、幼なじみで1歳下の橋田東声(とうせい=1886~1930、本名 丑吾)でした。苦学生として東京帝国大学で学ぶ一方、旧制高校在学中から与謝野鉄幹に師事する歌人でもあった東声に、志保子は働いて経済的支援をしつつ文学の勉強にも励みます。東声の卒業を待って二人は結婚、やがて東声は短歌結社を主宰し名声を高めます。そこに集まった歌人の中に、志保子より12歳下で、のちに再婚することとなる浜忠次郎(はま・ちゅうじろう=1897~1961)がいました。

北見志保子に関する書籍

北見志保子に関する書籍

「真理に生きたい」と奈良へ

志保子と忠次郎は、次第に惹かれあってゆきます。1922(大正11)年夏、ついに志保子は東声と別居し年内に離婚。四面楚歌の志保子が身を寄せたのは、大和未生流初代家元として志保子に華道を教えていた須山法香斎邸でした。前年には同じく歌人の柳原白蓮(やなぎわら・びゃくれん)が、炭坑王と呼ばれた夫 伊藤伝右衛門の元から出奔する「白蓮事件」で世間を騒がせていたこともあり、志保子もまた奔放な女性というレッテルを貼られます。しかし実際のところは、東声の裏切りが先にあったようです。

志保子が度々訪れた東大寺龍松院

志保子が度々訪れた東大寺龍松院

親から交際を反対された浜忠次郎は、半ば強制的にフランスへ留学させられてしまいます。「奈良に永住しやうかとさへ思つた」という志保子は須山邸から借家に移り住み、およそ1年半奈良に滞在しました。のちに東大寺別当を務めた龍松院住職 筒井英俊師とはこのときに知遇を得、家族ぐるみの交流は生涯続きました。筒井氏に宛てられた手紙には、志保子の当時の心境が吐露されています。

(略)私はたいへんな反逆を起こしましたので
いろいろ忙しいので御座います。(略)
新しい女だなどゝお思ひ下さいますな。
私は新しくはないので御座います。
唯「真理に生きたい」と思ふだけで
こんな冒険をしたのですから。

1925(大正14)年、忠次郎は無事帰国し、数年後に二人は結婚します。冒頭の「平城山」は、忠次郎のフランス留学中の気持ちを歌にしたものといわれます。国文学者の池田亀鑑(いけだ・きかん=1896~1956)は、「あの絶唱「平城山」は、万葉の昔から生き、夫人(志保子)の詩心に宿り、そして永久に女人の心に息づく哀感に違ひない」と惜しみない讃辞を送っています。

月光菩薩と歌集『月光』

お水取りで有名な二月堂の並びに、東大寺最古の建築物といわれる国宝「法華堂(三月堂)」があります。天平時代初期に建てられた正堂に、鎌倉時代の礼堂をつないだ独特の様式は、異なる時代の技術を調和させる時間の流れを感じさせます。

東大寺 国宝法華堂(三月堂)

東大寺 国宝法華堂(三月堂)

南から見ると2棟がつながる様子がよくわかる。左奥は二月堂

南から見ると2棟がつながる様子がよくわかる。左奥は二月堂

志保子は、本尊 不空羂索観音の脇侍である日光菩薩と月光菩薩のうち、特に月光菩薩をこよなく愛しました。1928(昭和3)年に刊行された歌集『月光(がっこう)』のあとがきには、「『月光』といふ名前は、美の権化のやうな、しかも静寂極りのない、三月堂の側侍、「月光菩薩」のことである。(略)奈良に於て私の心を培はれ、はぐくまれた永久の記念に、それにふわはしい名を考へた」と記されています。

後背に夕陽あかるき光(かげ)ありて菩薩はかろき合掌のみ手

※月光菩薩は現在、日光菩薩とともに東大寺ミュージアムに安置されています。

北見志保子歌集『月光』。扉には別刷りの月光菩薩が添えられている

北見志保子歌集『月光』。扉には別刷りの月光菩薩が添えられている

歌集『月光』。装幀の瓦模様は筒井英俊師の拓本による

歌集『月光』。装幀の瓦模様は筒井英俊師の拓本による

1949(昭和24)年、志保子は女性歌人のための画期的集団「女人短歌会」結成に尽力し、1955(昭和30)年に70歳で永眠しました。歌集『月光』には、奈良でのくらしを詠んだ章「ひとり居」のほか、県内の名所旧跡を詠んだ「那羅」の章など、奈良の歌が数多く収められ、特に月の光を帯びた奈良の夜景を詠んだ歌が印象的です。

大寺の庫裡の広間に夜を更かし友と語れば月の出となれり
街をこえてま向ひに見ゆる生駒山月照り更けてまたたくともしび

奈良と北見志保子に関する参考文献など

『「平城山」のうたゆえにー北見志保子~その人と文学』厚芝保一著 奈良新聞出版センター 1986
『「平城山」の歌人 北見志保子』没後50年展図録 高知文学館 2006
『奈良・大和を愛したあなたへ』千田稔著 東方出版 2017

国会図書館デジタルコレクションで読める北見志保子の歌集

『月光』交蘭社 1928 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1090532 

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