大伴家持と万葉集

家持が歌に詠んだカタカゴの花

大伴家持と万葉集

万葉集の最終編纂者といわれる大伴家持(おおとものやかもち)。家持の歌は、万葉集約4500首のうち470首以上を占めており、特に20巻ある万葉集の最後の4巻は、家持の「歌日記」といえる内容になっています。また不思議なことに、家持は40歳過ぎに詠んだ歌を最後に、その後の歌を残していません。今回は後期万葉集を代表する歌人、大伴家持の生涯と、彼をとりまく人々や時代についてご紹介します。

大伴氏の長男として

大伴氏の邸宅は「佐保の内」にあった

大伴氏の邸宅は「佐保の内」にあった

大伴家持は718年、大伴旅人(たびと=665~731)の長男として生まれました(生年には諸説あり)。大伴氏は古代有力豪族の一つで、漢学や和歌に長じた旅人も、太宰帥や大納言を歴任した高級官僚でした。家持の祖父、安麻呂も大納言であったため、佐保山と佐保川に挟まれた「佐保の内」を本拠地とした大伴氏の邸宅は、「佐保大納言邸」と呼ばれました。父旅人は、大宰府から平城京に戻ってまもなく亡くなり、まだ10代半ばの家持に名門大伴氏の長としての重責がのしかかります。その際、家持の親代わりとなったのが、旅人の妹で家持の叔母にあたる大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)でした。家持はその後、坂上郎女の娘の坂上大嬢(おおいらつめ)を正妻にします。妻問婚が多く、近親婚も認められていた古代において、大伴一族の結束を強固にするため、坂上郎女のお膳立てが大きかったのではないかと考えられています。

家持の恋人

家持は、多くの女性とかわした相聞歌を万葉集に残していますが、次の歌は家持がまだ20代初め、「みまかりし妾(おみなめ)を悲傷(かなし)びて」詠んだ歌の続きの、「悲しびいまだやまず、また作れる歌」5首中の1首です。

 昔こそ外(よそ)にも見しか吾妹子(わぎもこ)が
  奥つ城(おくつき)と思へば愛(は)しき佐保山 (巻3・474)
 (昔はなんの思い入れもない場所だったのに
   あなたが眠っていると思えばこんなに愛しい佐保山よ)

坂上大嬢と正式に結婚する前、家持には彼の子どもを残して死んでしまった女性がいたようです。名前も記されていないその女性を、家持がいかに愛していたかは、何カ月にもわたって詠まれた多くの挽歌から伝わってきます。佐保山は大伴邸のすぐ北の丘陵地で、天皇陵をはじめ多くの墓所がありました。しかし、愛する人を失った若い家持に、佐保山は以前とは違う意味を持って立ち現れ、家持の人生観を決定づける役割を果たしたのかもしれません。

奈良市街北辺を東西に延びる丘陵地が佐保山

奈良市街北辺を東西に延びる丘陵地が佐保山

無常観の色濃い家持の歌

父や愛する人を若い頃に亡くした家持の歌は、人生の無常や不条理をよく詠んだ父旅人や、その友人山上憶良(やまのうえのおくら)らからの直接の影響に加え、柿本人麻呂や山部赤人など先人の歌や漢詩文の表現も取り込みながら、文学的に磨かれてゆきます。

 世の中は数なきものか
  春花の散りのまがひに死ぬべき思へば (巻17・3963)
 (人の世はなぜこんなにもはかないのだろう。
  春の花の散りまぎれる中に、死ぬものなのだと思えばなおさら)

この歌は、家持が数え年30歳の年に、越中(現在の富山県)で詠んだ歌です。それより7年前には平城京から北東へ約10キロメートル離れた恭仁京(くにきょう)への遷都があり、家持も聖武天皇に従っていきました。慣れ親しんだ平城京が荒廃するなか、遅々として進まない新都の建設は5年で挫折、その後家持は越中守(えっちゅうのかみ)として北陸へ赴任します。それから間もなく弟の死の知らせが入り、家持自身も生死をさまよう病気に。世の中のはかなさを人一倍感じ、それを歌にする力量のあった家持ならではの歌には、いつの時代の人々にも共通する思いがあふれています。

平城京跡から約10キロ北東にある恭仁京跡

平城京跡から約10キロ北東にある恭仁京跡

家持が大伴氏を率いて生きた時代は、天皇の外戚となった新興勢力藤原氏が隆盛を誇る時代でした。そのことが家持の歌を洗練させたとすれば皮肉なことですが、都から遠く離れた越中で、家持は数多くの秀歌を残しました。そして大仏開眼の前年、少納言となった家持は、大仏造立に沸き立つ平城京に約5年ぶりに戻ります。当然開眼法要にかかわる何らかの仕事をしたはずですが、大仏に関する歌は一首も残しませんでした。

大伴邸からも見えたであろう春日山方面

大伴邸からも見えたであろう春日山方面

一方、大仏開眼翌年に佐保の大伴邸で詠まれた次の歌は、「春愁三首」として知られています。


 春の野に霞たなびきうら悲し
  この夕かげに鶯鳴くも (巻19・4290)
 (春の野に霞がたなびくのを見るのは物悲しい。
   この夕ぐれの光の中で鶯の声を聴くことも)

 わが屋戸(やど)のいささ群竹(むらたけ)吹く風の
  音のかそけきこの夕べかも (巻19・4291)
 (我が家の庭のわずかな竹の群れに吹く風よ
   その音がかすかに聞こえるこの夕べよ)

 うらうらに照れる春日に雲雀(ひばり)あがり
  こころ悲しも独りし思へば (巻19・4292)
 (うららかに照る春の日に、雲雀が舞い上がり鳴く
   独りで物思いをしていると、それがたまらなく悲しい)

季節は春に向かっているのに、家持の気持ちは晴れないのです。歌人であり、国文学者であった折口信夫(釈迢空=1887~1952)は、家持のこれらの歌について、「こんなに深い心で、静かにものを考え、独り悲しんでいる人」が奈良時代にあったことに着目するべきだと述べています。

歌わぬ家持のその後

万葉集は759年、40歳を過ぎた家持の新年を寿ぐ一首で閉じられています。しかし実際の家持は、785年に数え年68歳で生涯を閉じました。25年以上の沈黙期間に、家持が本当に歌を詠まなかったのか、それとも残さなかったのかは分かりません。家持は後半生、数多くの謀反計画に関わったとされては左遷され、それでも従三位、中納言まで出世しました。しかし亡くなった直後に藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に関わっていたとされ、死後でありながら官位をはく奪、財産を没収されてしまいます。「万葉集」は、没収された財産の中に入っていたのではないかと考えられています。それからおよそ20年後、平安時代にようやく家持は復権し、「万葉集」の存在が知られるのです。

最後に、大伴家持は苦悩に満ちた歌だけを残したわけではありません。夏痩せする人にウナギをすすめるユニークな歌があったり、可憐な草花を詠んだ美しい歌も多く残しています。堅香子(カタカゴ=カタクリ)の花の歌は、万葉集中で家持の歌1首のみです。

 もののふの八十乙女(やそおとめ)らが汲みまがふ
  寺井の上の堅香子(かたかご)の花 (巻19・4143)
 (多くの乙女たちが入り乱れて水を汲む
   そんな寺の井戸に群れて咲くカタクリの花よ)

群生する堅香子の花を、うつむきながら行きかう乙女に見立てる家持の豊かな感性が集約された歌です。数奇な運命を経て現代に受け継がれてきた日本最古の歌集は、どのような権力よりも長く、人のこころを動かす力を持ち続けているのではないでしょうか。

主な参考資料

『新潮日本古典集成 万葉集』1~5 新潮社 1976~1984
『万葉集 全訳注原文付』1~5 中西進 講談社文庫 1978~1985
『萬葉百歌』山本健吉、池田彌三郎 中央公論社 1963
『日本詩人選5 大伴家持』山本健吉 筑摩書房 1971
『研究資料日本古典文学 ⑤万葉・歌謡』明治書院 1985
『萬葉集とその世紀(下)』北山茂夫 新潮社 1985
『万葉集を知る事典』桜井満監修 東京堂出版 2000
『日本人のこころの言葉 大伴家持』鉄野昌弘 創元社 2013
『奈良県立万葉文化館ガイドブック』2015

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登大路ホテル奈良からのアクセス

奈良県立万葉文化館

Webサイト

http://www.manyo.jp/

住所

高市郡明日香村飛鳥10

アクセス

近鉄橿原神宮駅東口を下車、明日香周遊バス:赤かめで「万葉文化館西口」下車すぐ

情報

開館時間 10:00~17:30(入館は17:00まで)
休館日 月曜日(月曜日が祭日の場合は翌平日)、年末年始、展示替日
入館無料(日本画展示室の展覧会は有料)
駐車場あり(無料、普通自動車107台)

史跡 恭仁京跡(山城国分寺跡)

Webサイト

http://0774.or.jp/spot/kunikyo.html

住所

木津川市加茂町例幣

アクセス

JR加茂駅西口より徒歩約30分。または、コミュニティバス「恭仁宮跡」下車すぐ

※2021年03月現在の情報です。

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