「奈良の茶粥」と江戸で流行した「奈良茶飯」

茶粥のある家庭の食卓

「奈良の茶粥」と江戸で流行した「奈良茶飯」

茶粥のある家庭の食卓

茶粥のある家庭の食卓

登大路ホテル奈良の朝食でもお選びいただける「大和(奈良)の茶粥」。ほうじ茶の香ばしい匂いが食欲をそそる茶粥は、日本の食文化を代表する「米」と「茶」が結びついた食べ物です。

「京都の白粥、大和の茶粥」などと言われ、奈良の郷土料理として紹介される茶粥ですが、実際は近畿地方を中心に、主に西日本でよく食べられてきたようです。にもかかわらず、「茶粥といえば奈良」と言われることが多いのはなぜなのか。今回は奈良から江戸、そして全国へ伝播した、奈良の茶粥についてご紹介します。

餅やはったい粉などを入れた茶粥

餅やはったい粉などを入れた茶粥

人の数だけある茶粥

ひとくちに茶粥といっても、日々の食事として各家庭で受け継がれてきた茶粥は、米と茶と水の分量や塩の有無だけでなく、材料の投入手順まで千差万別です。また、奈良県内であっても茶粥になじみのない地域や家庭もあり、思い入れも人それぞれ。「一般的な茶粥」を定義するのは簡単ではありませんが、米1合に対して5合から10合ほどの水を用意し、木綿製の茶袋(ちゃんぶくろ)などに焙じた番茶や粉茶を入れ、煮だして米を炊き上げることは共通しています。

ただし米の状態ひとつをとっても、洗わないまま入れる、洗って一晩置いておくなど様々で、茶袋の出し入れも、水から入れる、沸騰させて入れる、米を投入する前に引き上げる、米と一緒に煮炊きを続けるなど好みが分かれます。分量や炊き方の微妙な違いによって、さらさらの茶粥、とろりとした茶粥になり、出来たてアツアツが好きな人もいれば、夏は冷やした茶粥が好きな人、さらには冷たいご飯に熱い茶粥を掛ける人など、人の数だけ茶粥の種類があると言っても過言ではありません。

ほうじ茶を茶袋(ちゃんぶくろ)に入れて煮だす

ほうじ茶を茶袋(ちゃんぶくろ)に入れて煮だす

茶袋(ちゃんぶくろ)を絞り切る

茶袋(ちゃんぶくろ)を絞り切る

茶粥の道具、木綿の茶袋、竹製の茶袋、坪杓子

茶粥の道具、木綿の茶袋、竹製の茶袋、坪杓子

作家たちと茶粥

東大寺の鎮守社、手向山(たむけやま)八幡宮の神主の家系に生まれた小説家 上司小剣(かみつかさ・しょうけん=1874~1947)は、随筆『生々抄』の中で、奈良の茶粥について次のように書き記しています。

「番茶を袋に入れて煮出すのであるが、別に煮出しては香味を失うので、米と一緒に入れて煮る。ただ、普通の粥のようにぐつぐつ煮たり、搔きまわしたりしないで、さっと煮上げて火を引く。この呼吸がちょっとむずかしい。どろどろと糊のようにしてしまってはまずいのである」

食通で知られる文豪 谷崎潤一郎(1886~1965)は、『吉野葛』執筆にあたって訪れた吉野で、茶粥を食べたことがあるようです。昭和の初め、吉野町国栖(くず)で手漉き和紙をつくる福西家を訪れた谷崎は、数日間作業をじっと見続けたある日、茶粥を食べさせてほしいと頼んだそうです。谷崎は翌日も現れて再び茶粥を所望、2日続けて茶粥を食べて帰っていったそうです。

どちらも、「茶粥が好き」「茶粥は絶品」などと言葉にしたわけではありませんが、茶粥に対する並々ならぬ思い入れが伝わってくるようなエピソードです。

奈良の茶粥の起源説

奈良の茶粥のルーツとしてよく出てくるのが、「大仏建立」と「景清(かげきよ)潜伏」にまつわる2つの起源説です。1つ目は奈良時代、東大寺大仏建立の際に少ない米を茶でのばして食べたのが始まりとする説、2つ目は鎌倉時代、源氏に敗れた平景清は、大仏供養に参詣する源頼朝を討とうと東大寺転害門(てがいもん)に潜伏、その際に消化に良いと食べたのが茶粥だったとする説です。それぞれ東大寺に関わる説であるのは、「お水取り」で有名な東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)の期間中、練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる僧侶たちの食べる夜食が茶粥であることと関係しているかもしれませんが、いずれも史料があるわけではなく、伝説の域を出ないもののようです。

景清潜伏説のある東大寺転害門

景清潜伏説のある東大寺転害門

「お水取り」の夜食に出される茶粥の実演風景

「お水取り」の夜食に出される茶粥の実演風景

日本初の外食産業となった「奈良茶飯」

江戸時代になると、奈良の茶粥を「奈良茶」と記した文献が出てきます。なかでも現大阪府の河内屋五兵衛(1636~1713)の記した文献には、「奈良茶」は「やじゅう」とも呼ばれていたこと、その理由は現近鉄奈良駅横の小西通りに住んでいた井戸屋弥二郎(弥十郎とも)が始めた倹約料理によることなどが書き残されています。

一方、1657年に江戸で起きた大火事「明暦(めいれき)の大火」のあと、復興作業が進められる江戸で、気軽に食べられる外食、今でいうファストフードとして「奈良茶」が人気を博します。それは茶粥そのものではなく、豆などを入れ茶で炊いた「奈良茶飯」に発展し、豆腐や煮物などをつけた定食が大流行。浅草を皮切りに目黒の行人坂(ぎょうにんざか)、東海道川崎宿などにも奈良茶飯の店ができ、高級料理店になったところもありました。奈良の茶粥は江戸で奈良茶飯となり、日本の外食産業のはじまりとなったといわれているのです。

行人坂「御ならちゃ」の店(国会図書館蔵『絵本江戸みやげ』を加工)

行人坂「御ならちゃ」の店(国会図書館蔵『絵本江戸みやげ』を加工)

「河崎万年屋 奈良茶飯」(『江戸名所図会』国会図書館蔵)

「河崎万年屋 奈良茶飯」(『江戸名所図会』国会図書館蔵)

「御奈良茶所」の店々(『江戸買物独案内』国会図書館蔵)

「御奈良茶所」の店々(『江戸買物独案内』国会図書館蔵)

弥次さん喜多さんの道中記として知られる『東海道中膝栗毛』の中では、2人が奈良茶飯を食べるシーンが登場。また、「忠臣蔵」の赤穂義士たちは討ち入り後、切腹を命じられるまで預けられた大名屋敷で、当時流行していた奈良茶飯を振る舞われていたという文書も残っています。

江戸で流行した奈良茶飯は、参勤交代などを通じて全国に広がり、いつしか「茶粥」だけでなく「茶飯」のことも「奈良茶」と呼ぶようになったようです。井原西鶴や近松門左衛門といった上方(かみがた)の文化人や、俳人の松尾芭蕉も「奈良茶」の言葉を使っており、淀川を往来する三十石船(さんじっこくぶね)の旅客に飲食物を売る「くらわんか船」が、「ならちゃ」と掲げて茶飯を売る様子も描かれています。

淀川で「奈良茶」を売るくらわんか船(『絵本家賀御伽』)

淀川で「奈良茶」を売るくらわんか船(『絵本家賀御伽』)

九州で作られた「奈良茶碗」

さらに、江戸で流行した奈良茶飯を盛るために、「奈良茶碗」と呼ばれる蓋付き飯茶碗までもが作られるようになりました。主な生産地は有田焼で有名な佐賀県有田で、大量に注文生産が行われたようです。詩人の蒲原有明(かんばら・ありあけ=1875~1952)が明治末期に作った「有田皿山にて」という詩の中には、有田焼の店に奈良茶碗がうずたかく積まれている様子が描かれています。

いろいろな奈良茶碗

いろいろな奈良茶碗

倹約料理から流行料理、さらには専用食器の生産へと思わぬ発展を遂げた「奈良の茶粥」。一方で、各家庭で工夫を重ね、個人的な食べ物として受け継がれてきた「奈良の茶粥」。辿った道は違っても、それぞれが「茶」と「米」という日本の食文化のエッセンスであることに、変わりはありません。

主な参考資料

『茶粥・茶飯・奈良茶碗 全国に伝播した「奈良茶」の秘密』鹿谷勲 淡交社 2021
写真提供 鹿谷勲

※2022年1月現在の情報です。

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