作家 玉岡かおるの登大路・往来記(Noborioji ouraiki)

母鹿、子鹿の写真
第1回 初夏 小鹿たちの跳ね翔ぶ楽園

若草萌える奈良の初夏。 日ざしも輝き、野に山に、すべての生命が生い立つ五月を過ぎれば、奈良ではもう一つ、 あたらしい命が生まれる季節を迎える。それは、奈良のシンボルともいえる鹿の赤ちゃんたちだ。

鹿の恋の季節はだいたい秋で、数多くの和歌に詠まれてきたように、山の奥で紅葉を踏み分け異性を求めて鳴きかわす。 そして恋が成就すれば七か月の後、五月から七月には、かわいい子鹿が誕生するという流れ。 だけど、いったい子鹿はどこに?そもそも奈良の鹿は国の天然記念物で、誰が飼っているわけでもない野生の動物なのである。 とすれば、母鹿たちには安全な場所はあるのだろうか、子鹿は外敵に襲われることなく育つのだろうか。


そんな心配をしていたら、春日大社禰宜(ねぎ)の今井祐冶さんが教えてくれた。
「安心してください。母鹿と子鹿を保護する場所が、ちゃんとあるんですよ」
と案内していただいたのは、春日大社の広大な境内の一角、石燈籠の並ぶ参道の南側。 「鹿苑(ろくえん)」という。観覧席へ上がるとそこはスタジアムのようで、草の茂った広いグラウンドが見下ろせる。 そして一面に、母鹿、子鹿の姿がある。すらりと大きい鹿はお母さん。そして背中を白い点々が彩っているのが子どもたち。 奈良公園には雌の鹿だけで七百頭いるそうだが、子持ちの鹿はそのうち二百頭。となると、生まれた子鹿はすごい数になる。


「鹿は、母鹿から産み落とされてからわずか数十分で、自分のその細い脚でフラフラと立ち上がるんですよ」
と今井さん。生き抜くために、いま授かった命を謳歌するために、野生の生き物たちの、無言の記憶に刻み込まれた力であろう。 感動的な誕生の儀式を終えた子鹿たちは、母鹿のおっぱいをもらって、日に日に大きく育っていく。勝手気ままに座り込んだり走ったり、 前後して生まれた子鹿たちにちょっかいをかけてはつれなくされたり、「人間にもあるよね」と思わず笑ってしまう場面の数々。
「まるで鹿の母子の楽園ですね」
「シャレですか?」
指摘されて気がついた。“ろくえん”と“らくえん”。
うふふ、意図したわけではないが、実に見事なネーミングというほかはない。まさにここは、鹿たちの命の聖域だ。


次なる生命をこれほど大切にするのも、なんといっても、鹿は春日大社の神使だから。
「遠い昔の奈良時代、春日大社が創建された際に、鹿たちははるばる、茨城県にある鹿島神宮の祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)を その背に乗せて、奈良までやってきたと伝わっています」
今井さんの説明に、あらためて境内を見渡せば、先祖の手柄で千三百年あまりもこうして大事にされているなんて、 そんな因縁、わかっているとも思えない鹿たちが、外国からの観光客や修学旅行生に鹿煎餅をもらおうと、のたりのたりと後を追う。
今年生まれた鹿たちも、やがてそこに加わり、奈良のアイドル役を務めるのだろう。
人類が築いた奈良の偉大な文化と野生の命。それがみごとに同じ場所で継承されていく不思議も、みほとけの国では、 またありうる。子鹿たちを眺めて飽きない初夏である。

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兵庫県三木市生まれ。神戸女学院大学卒業。 ’87年 神戸文学賞受賞作の『夢食い魚のブルー・グッドバイ』(新潮社)で文壇デビュー。 著書多数の中、幻の名画コレクションに材を取った『天涯の船』をはじめ、巨大商社・鈴木商店の女主人の一代記『お家さん』
(第25回 織田作之助賞受賞)、生野銀山を舞台に国家と人間の近代化を描いた『銀のみち一条』(いずれも新潮社)は、 明治三部作として反響を呼んでいる。

2015年に刊行した『天平の女帝 孝謙称徳』(新潮社)執筆の際は、小説の舞台が登大路ホテル奈良に隣接する興福寺だったこともあり、ホテルに宿泊して構想を練った。 最新作は、呉服商から皇室御用達百貨店を目指した女主人の一代記『花になるらん-明治おんな繁盛記-』(新潮社)。

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