| 渦巻き飾りの楼閣
奈良盆地のほぼ中央、磯城(しき)郡田原本町(たわらもとちょう)にある「唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡」。1991年、ここから他に類を見ない楼閣絵画土器が出土しました。屋根に渦巻き飾りがくっきりと描かれたこの土器をもとに建てられたのが、唐古・鍵遺跡のシンボル「復元楼閣」です。
今回は、今も調査発掘が続けられている唐古・鍵遺跡と、その出土物を展示する考古学ミュージアム、そして古代から現代にいたる田原本町の変遷をご紹介します。
ー 1991年に出土した楼閣絵画土器
ー 唐古池と復元楼閣(田原本町提供)
| 唐古・鍵遺跡を発掘した人たち
今からちょうど120年前の1901年、鍵地区での採集遺物を初めて学界に発表したのが、のちの考古学者で当時奈良県立畝傍(うねび)中学校の教師をしていた高橋健自(けんじ=1871~1929)でした。また、鍵の北にある唐古地区に住む飯田松次郎と恒男の親子は、学者たちに池の堤や水田などに出土する遺物を教えるだけでは飽き足らず、採集した遺物の図集を自費出版するなど、熱心に活動しました。畝傍中学生時代から唐古池に通い、在野の考古学者として頭角を現していた森本六爾(ろくじ=1903~1936)は、当時まだ解明途上であった弥生時代の生業が、農業であったという説を立てました。この着想のもとになったのが、唐古・鍵遺跡でみつけた土器の底についた籾(もみ)のあとです。しかし六爾は、結核のため32歳で早逝してしまいます。松本清張の短編小説『断碑(だんぴ)』の主人公 木村卓治のモデルは、この森本六爾です。
ー かつては水田だった唐古池の周囲
ー 唐古・鍵遺跡の南東(右奥)に見える三輪山
六爾が亡くなった翌1937年、国道を新設するための土砂採取と同時進行で、唐古池の本格調査が初めて行われました。この3か月に及ぶ大規模調査にあたったのが、のちに橿原考古学研究所初代所長となる末永雅雄(1897~1991)でした。調査では、炭化米や木製農具など、農耕社会を証明する遺物や多くの竪穴が見つかり、唐古池の遺跡は一躍有名になります。また、このときの調査で5つの様式に分けられた弥生土器の編年図は、その後の土器分類のスタンダードになりました。
少し脱線しますが、「唐古」「鍵」というちょっと不思議な名前は、遺跡が発掘された場所の地名です。唐古は鎌倉時代、鍵は安土桃山時代の文書が初出で、弥生時代と直接関係はありません。そして、長方形の唐古池は、江戸時代につくられたため池で、弥生時代にこのような形の池があったわけではありません。また、「弥生時代」の名前はこの時代の土器が最初に見つかった東京都文京区弥生にちなむため、これも本当の弥生時代とは直接関係がありません。ちなみに平安時代、唐古・鍵一帯は田中庄と呼ばれる荘園地であり、その領主は紫式部の夫、藤原宣孝(のぶたか)でした。
| 600年以上存続した多重環濠集落
ー 唐古・鍵遺跡史跡公園
ー 史跡公園内にある遺構展示情報館
戦前の大規模調査から40年が経った1977年、橿原考古学研究所によっておこなわれた発掘調査で、2つの大きな溝のほか、青銅器の工房跡など重要な遺構が次々に発見されました。古代の条里制をベースに発展してきた直線的な区画の下には、弥生時代前期から古墳時代前期にいたる600年以上にわたり、何重にも濠をめぐらせた円形の集落が営まれていたのです。調査は田原本町によって続行されることになり、1999年には、寺川と初瀬川(大和川)に挟まれた42万平方メートルある遺跡のうち、唐古池を中心とする10万平方メートルが国の史跡に指定され、2018年に「唐古・鍵遺跡史跡公園」として整備されました。
ー ⽥原本⻘垣⽣涯学習センター内にある「唐古・鍵考古学ミュージアム」
ー 唐古・鍵ムラの想像模型
そして、唐古・鍵遺跡で出土し、国の重要文化財に指定された1921点を保管し、うち400点近くをテーマ別に展示しているのが、史跡公園から約2キロメートル南にある「唐古・鍵考古学ミュージアム」です。近畿地方を中心に、西は九州北部から東は中部地方まで各地の品物が運ばれてきた唐古・鍵の集落は、大阪から川をさかのぼってきた舟の港町の役割も果たしていたようです。その後古墳時代になり、唐古・鍵の集落がスライドするかのように栄えたのが、初瀬川を4キロメートルほど南下した纏向(まきむく)遺跡ではないかと考えられています。ヤマト王権誕生の礎となった唐古・鍵遺跡のさらなる解明に期待が高まります。
ー 重要文化財をテーマ別に展示
ー 唐古・鍵遺跡のシンボル「楼閣絵画土器」が間近に
| 交通の要衝、田原本町散策
唐古・鍵遺跡と考古学ミュージアムとあわせて、江戸時代の寺内町の風情をほどよく残す田原本の中心部を巡るには、田原本駅前にある観光ステーション「磯城の里」でレンタサイクルを借りると便利です。観光ステーションでは田原本の案内マップのほか、地元作家によるオリジナルグッズなどを手に入れることができます。
ー 観光ステーションで人気の絵画土器小皿
ー 田原本駅東には平野氏ゆかりの浄照寺と本誓寺が並ぶ
ー 材木町の町並み
古代は官道「下ツ道(しもつみち)」と呼ばれ、近世は「中街道(なかかいどう)」と呼ばれた南北の幹線道路と寺川に沿って発展した田原本は、室町時代中期には楽田寺(らくでんじ)を中心に栄えた交通の要衝でした。賤ケ岳の戦いで武勲をたてた「七本槍」の一人 平野権平長泰が、1895年に秀吉からこの地を与えられたあと2代目長勝が領地入りし、以降明治に入るまで10代にわたって平野氏が領主として田原本を治めました。商家が残る材木町を抜け、平野氏陣屋跡に建つ田原本町役場をさらに北へ進むと、鏡を作る集団「鏡作部(かがみつくりべ)」の氏神として、現代では鏡やガラス、美容業界の人たちも多く参拝する「鏡作神社(鏡作坐天照御魂〈かがみつくりにますあまてらすみたま〉神社)」の杜が見えてきます。街道をさらに北へ進むと唐古・鍵遺跡の北西に隣接する「道の駅 レスティ唐古・鍵」へ。地元の旬の野菜や果物、特産品が販売されているほか、軽食やスイーツも楽しめます。南端の楽田寺から北端の道の駅までは、直線で2.5キロメートルほどです。道の駅3階の展望エリアから四方の山々を見渡してみると、広々としたこの地が、弥生時代から水陸の拠点として重要な役割を果たしてきたことがよくわかります。
ー 鏡作神社(鏡作坐天照御魂神社)
ー 中街道の町並み
ー 奈良の食材を使った道の駅のおにぎりセット
◇唐古・鍵遺跡史跡公園へのアクセス
近鉄橿原線石見駅から東へ徒歩約20分(約1.5キロメートル)
◇観光ステーション「磯城の里」へのアクセス(レンタサイクル受付)
近鉄橿原線田原本駅東改札を出てすぐ
◇関連サイト
唐古・鍵遺跡史跡公園 唐古・鍵 考古学ミュージアム 観光ステーション「磯城の里」 道の駅「レスティ唐古・鍵」◇主な参考資料
『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』藤田三郎 新泉社 2019
『日本の遺跡45 唐古・鍵遺跡』藤田三郎 同成社 2012
『唐古・鍵遺跡の考古学』田原本町教育委員会編 学生社 2001
「唐古・鍵 考古学ミュージアム 常設展示図録」田原本町教育委員会 2020改版
「田原本の遺跡6 弥生の王都 唐古・鍵」田原本町教育委員会 2020改版
「寺内町と陣屋の考古学」田原本町教育委員会 2009
※2021年8月現在の情報です。