正岡子規と奈良

法隆寺鏡池にある子規の句碑

正岡子規と奈良

正岡子規が訪れた法隆寺

正岡子規が訪れた法隆寺

子規、最後の旅は奈良

明治期に俳句や短歌といった伝統詩を革新し、35年の短い生涯を駆け抜けていった正岡子規(まさおかしき=1867~1902)。代表句のひとつ「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は、約7年に及んだ病床生活に入る前年、奈良で詠まれたものでした。

法隆寺鏡池にある子規の句碑「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」

法隆寺鏡池にある子規の句碑「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」

子規自筆「寒山落木」。右側後ろから2句目が「柿くへば…」(国立国会図書館蔵)

子規自筆「寒山落木」。右側後ろから2句目が「柿くへば…」(国立国会図書館蔵)

正岡子規 本名常規(つねのり)は、慶應3(1867)年に現在の愛媛県松山市に生まれました。松山中学在学中に自由民権運動に感化され、政治家を目指して明治16(1883)年に上京。東京大学予備門に合格した後は、ベースボールに夢中になり、哲学や文学活動に興味を移す中で、生涯の友となる同級生の夏目漱石とも出会います。しかし、充実した日々を送る子規に病魔が忍び寄っていました。明治22(1889)年5月には喀血が続き、「鳴いて血を吐く」といわれるホトトギスの当て字のひとつである「子規」を号にして、俳句に打ち込むようになります。

肺結核による短命を予感した子規は、俳句革新に着手。大学を退学して新聞社に入社し、新聞「日本」に俳句欄を設けるなどして自身の俳句理論を広めました。そして明治28(1895)年4月、日清戦争従軍記者として中国に渡り、5月に帰路の船中で再び喀血、重篤となりそのまま神戸で入院、須磨で静養して次第に回復し、8月に松山に帰郷します。ちょうど松山中学に赴任していた夏目漱石の下宿に50日以上逗留し、10月下旬に松山を出発、広島、須磨、大阪を経て最後に立寄ったのが、奈良だったのです。

正岡子規自画像(国立国会図書館蔵)

正岡子規自画像(国立国会図書館蔵)

柿くへば鐘が鳴るなり「東大寺」?

国宝 東大寺梵鐘(752年 奈良時代)

国宝 東大寺梵鐘(752年 奈良時代)

子規は後年、随筆「くだもの」の中の「御所柿(ごしょがき)を食いし事」の項で、明治28(1895)年10月26日から29日までの4日間の奈良訪問について記しています。奈良へ遊ぼうと思い、病を推して出掛けたこと、幸い病気もひどくならずに面白く見てまわったこと、そして宿屋で食べた御所柿のことなどです。柿は食いしん坊の子規の大好物でした。

詩人や歌人が従来見離していたという柿に着目した子規は、「殊に奈良に柿を配するといふ様な事は思ひもよらなかつた事である。余は此新たらしい配合を見つけ出して非常に嬉しかつた」と振り返ります。

そして文章は「柿くへば鐘が鳴るなり…」の誕生秘話ともいうべき箇所へさしかかります。「或夜夕飯も過ぎて後、宿屋の下女にまだ御所柿は食へまいかといふと、もうありますといふ。(略)やがて下女は直径一尺五寸もありさうな錦手の大丼鉢(どんぶりばち)に山の如く柿を盛て来た。さすが柿好きの余も驚いた」。

直径45センチメートルほどの丼ぶり鉢に山盛りの柿を持ってきてくれたのは、梅林で有名な月ヶ瀬出身で、16、7歳の色白の娘でした。子規は思わず見とれながら、剥いてもらった柿を食べています。

「柿も旨い、場所もいい。余はうつとりとしてゐるとボーンといふ釣鐘の音が一つ聞こえた。(略)あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ」。

子規が宿泊したのは、東大寺の西隣に当時あった「對山樓(たいざんろう)」という老舗旅館でした。初夜(午後8時)の鐘は、大仏殿を東へ上がったところにある、大仏鋳造と同じ752年につくられた国宝の大鐘、通称「奈良太郎」だったのです。子規が宿泊した部屋のあたりは現在、「子規の庭」として整備され、「秋暮るる奈良の旅籠や柿の味」の句碑が建立されています。

梵鐘とともに鐘楼も国宝(13世紀初期 鎌倉時代)

梵鐘とともに鐘楼も国宝(13世紀初期 鎌倉時代)

「子規の庭」から東大寺大仏殿を望む

「子規の庭」から東大寺大仏殿を望む

「柿くへば」の句には、「法隆寺の茶店に憩ひて」という前書きが記されています。「柿くへば鐘が鳴るなり東大寺」だと夜の情景になってしまうため、昼の景色にするため結句に「法隆寺」を選んだのかもしれません。実際は想像の域を出ませんが、いすれにしてもこの句は、子規と奈良をつよく結びつける有名な一句となりました。

子規と奈良漬、そして吉野

奈良を経由して東京に戻った子規ですが、翌明治29(1896)年には結核の脊椎転移が判明して数回の手術を受けます。以後明治35(1902)年9月に亡くなるまで、ほとんどを病床で過ごす過酷な闘病生活の中で、旺盛な文学活動を続けました。亡くなる1年前から書き綴られた病床日記「仰臥漫録(ぎょうがまんろく)」には、生きているのが奇跡とまで言われるほどだった子規の、驚くほど旺盛な食欲の記録が残されています。そして、その中には奈良漬の文字が散見されます。たとえば明治34(1901)年9月30日には、

朝「ぬく飯三わん 佃煮二種 奈良漬(茄子) 牛乳五勺 菓子パン 塩せんべい」、
午「かじきのさしみ 粥三わん みそ汁(実は茄子) なら漬 林檎一ケ半」、
夕「鰆一切 小松菜ひたしもの なら漬(瓜) 粥三わん 葡萄一ふさ」、
夜「菓子パン」

と、朝昼晩三食に奈良漬を食べていた日もあるほどです。

明治35(1902)年5月14日、新聞連載「病床六尺」の中で子規は、「未だ見ざるの名所は歌や句に詠むべきにはあらざれども」としつつ、例えば富士山のように誰もが知っている名所は、人の話や絵画や写真から、句作が可能ではないかと述べています。そして、見たことのない吉野について、「幾許(いくばく)の想像を逞しうするを得て試みに俳句数首を作る」と、10句を残しています。

  花見えて足踏み鳴らす上り口
  花の山蔵王権現鎮まりぬ
  案内者も吾等も濡れて花の雨
  千本が一時に落下する夜あらん
  西行庵花も桜もなかりけり (ほか計10句)

そして4か月後の9月19日未明、その年の柿を食べることもなく、奈良を再訪することもなく、正岡子規は35歳の生涯を閉じました。再び来寧の機会があったとすれば、子規はどれほど多くの句を残してくれたことでしょうか。

奈良と正岡子規に関する参考文献など

『仰臥漫録』正岡子規 岩波文庫 1927
『飯待つ間 正岡子規随筆選』阿部昭編 岩波文庫1985
『子規句集』高浜虚子選 岩波文庫 1993
『ちくま日本文学40正岡子規』筑摩文庫 2009
『奈良と文学―古代から現代まで』帝塚山短期大学日本文芸研究室編 和泉書院 1988

登大路ホテル奈良からのアクセス

法隆寺

Webサイト

http://www.horyuji.or.jp/

住所

生駒郡斑鳩町法隆寺山内1番1号

アクセス

JR奈良駅から大和路快速で法隆寺下車、奈良交通バス「法隆寺参道」行きで終点下車すぐ

東大寺 鐘楼

Webサイト

http://www.todaiji.or.jp/

住所

奈良市雑司町406-1

アクセス

登大路ホテル奈良から北東へ徒歩約20分(1.6キロメートル)

子規の庭

Webサイト

http://shikinoniwa.com/

住所

奈良市今小路町45-1 日本料理 天平倶楽部内

アクセス

登大路ホテル奈良から東へ、「県庁東」交差点を北上、徒歩約16分(1.2キロメートル)

情報

開園時間 10:00~16:00(時間内入園自由)

※2020年07月現在の情報です。

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