究極の筆記用品 奈良墨 松壽堂

過度の乾燥や湿気を防いで貯蔵されている墨。丸印は等級を表している。 
写真:Photographer MIKI

究極の筆記用品 奈良墨 松壽堂

千年以上の時を経て残る墨

2018年秋の第70回正倉院展には、墨で描かれた風景がきわやかに残る「山水図」が出陳されました。千年以上の時を経て私たちを魅了する宝物、あるいは仏像や経典さらには木簡や書状など、墨はありとあらゆる歴史的産物に使われ、その年代や内容を私たちに伝えてくれます。現在、日本の墨の9割以上は奈良でつくられています。奈良町の一画にある「松壽堂(しょうじゅどう)」では、伝来の秘法に時代に応じた技術を取り入れながら、墨づくりが受け継がれています。

虫籠窓(むしこまど)に看板が映える松壽堂外観 
写真:Photographer MIKI

虫籠窓(むしこまど)に看板が映える松壽堂外観 
写真:Photographer MIKI

自らつくり、自ら商う

江戸時代中期に建てられた松壽堂の格子戸をくぐると、清々しい墨の匂いがかすかに漂います。「店の間」の上り框(かまち)は、墨を求めてこの店を訪れた人々の賑わいを語ってくれるかのようによく使いこまれています。墨づくりの名手として名高い森若狭につながる奈良墨の老舗を受け継ぐのは、代表の森克容(かつよし)氏です。かつての製墨店では、主人は店の経営に専念し、墨づくりはもっぱら冬季に三重県周辺からやってくる職人の仕事でした。しかし、戦後そのような就業体制は減り、店主自らが墨づくりに携わる時代に。克容氏は大学で商学を修めるかたわら、当時まだ店にいた職人2人から墨づくりを学びはじめました。自らつくり、自ら商うことのメリットは、つくり手にしか語りえないことを顧客に伝えられることと、顧客からの要望を墨づくりに直接活かせることだといいます。

松壽堂代表 森克容氏 
写真:Photographer MIKI

松壽堂代表 森克容氏 
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江戸中期の佇まいを残す松壽堂店内 
写真:Photographer MIKI

江戸中期の佇まいを残す松壽堂店内 
写真:Photographer MIKI

冬の奈良が生み出した奈良墨

修業は「墨のかたまりを触って覚える」ことから始まったという克容氏。正倉院展が終わる11月中頃からお水取りも終わり温かくなる春頃までが、墨づくりの季節です。墨づくりを始めてから暖かい日に戻ってしまうと、墨にカビが生えてしまうため、開始日は慎重に見極めるといいます。起床は午前2時過ぎ。膠(にかわ)を溶かすための湯を沸かし、食事をとったあと、衣服を着替えるために一旦裸になります。このときに肌に触れた空気からその日の湿気を把握し、感覚を研ぎ澄ませるのだといいます。

膠を溶かす炉や墨玉を計る道具は、作業ごとに小部屋を設けて配置されている 
写真:Photographer MIKI
膠を溶かす炉や墨玉を計る道具は、作業ごとに小部屋を設けて配置されている 
写真:Photographer MIKI

膠を溶かす炉や墨玉を計る道具は、作業ごとに小部屋を設けて配置されている  写真:Photographer MIKI

墨は、動物性のゼラチン質である膠(にかわ)と、松や油から採った煤(すす)、良質の香料などを練り合わせ、時間をかけてゆっくり乾燥させて出来上がります。中国大陸や朝鮮半島から7世紀頃伝えられた墨は魚類の膠を使っていましたが、日本の風土には合わず、試行錯誤の末に動物性の膠を使うようになったのだとか。膠は腐りやすく、作業には冬の早朝が適しています。克容氏はこれを、底冷えのする奈良盆地の気候が墨づくりに適していたというよりは、奈良の四季をうまく味方につけた結果が現在の墨づくりなのではないかといいます。寺社を中心に必要とされた墨は、都が移ってからも連綿と奈良でつくり続けられました。特に興福寺の燈明の煤を集めて作った「油煙墨(ゆえんぼく)」は黒味のある強い光沢であることから、「奈良墨」の名が高まったといわれています。

宮内庁御用達の墨づくり

松壽堂の墨は、古くから宮内庁で使われてきました。皇居では今も、要人が訪れた際に墨と筆を使って記帳します。数年前、アメリカの駐日大使が馬車で到着した際の記帳で使われたのが、松壽堂の墨です。公式に残しておかなければならない署名に墨が使われていることからも、墨がいかに優秀な究極の筆記用品であることがわかります。
最近では「墨を磨(す)る」という時間の使い方にも注目が集まっています。スピード重視になってしまった現代生活の中で、文字を書くために墨をするというぜいたくな時間、あるいは飾り墨を床の間に飾るなどのアロマテラピー的な空間の使い方が、今こそ大切なのではないかと克容氏はいいます。

左:宮内庁からの書面も飾られる店の間、右:森克容氏自作の木型 
写真:Photographer MIKI
左:宮内庁からの書面も飾られる店の間、右:森克容氏自作の木型 
写真:Photographer MIKI

左:宮内庁からの書面も飾られる店の間、右:森克容氏自作の木型  写真:Photographer MIKI

奈良墨は2018年11月、国の伝統的工芸品に指定されました。墨づくりの工程は約15にも分かれ、完成までに数か月を要します。膠と煤の原材料だけでなく、木型に適した梨の木片や、墨の水分を徐々にとるために墨を埋める幾種類もの灰、空気に触れさせるために墨を編んで吊るすもち米の稲藁、磨き上げるために使われる日向産のハマグリなど、伝統的な材料が数多く使われています。克容氏は、木型の彫刻も行います。もちろん、代々受け継がれてきた木型も大切に使っています。「明日から墨屋をやってみようと思っても無理なんです」と克容氏が言うとおり、受け継がれてきたさまざまな道具や材料がなければ、墨はつくれません。
最近は入手が困難な材料も増えてきました。だからこそ、工夫を重ねながらここぞというところで力を発揮できる墨をつくり続けたいという克容氏。奈良をあげて毎年12月に行われる「春日若宮おん祭」にも、自治会長をはじめ地域諸団体の役員として携わるなか、あわただしい墨づくりの季節がはじまります。

金箔を巻いた美しい奈良墨

金箔を巻いた美しい奈良墨

登大路ホテル奈良からのアクセス

松壽堂

住所

奈良市東城戸町10 電話0742-22-3023

アクセス

・近鉄奈良駅から小西さくら通りを抜けまっすぐ約650メートル南下、徒歩約10分
・営業時間10:00~16:00(不定休。事前連絡により応相談)

※2018年11月現在の情報です。

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