行基さんと奈良

行基菩薩坐像(喜光寺)

行基さんと奈良

待ち合わせの目印「行基さん前」

近鉄奈良駅の地下改札から、登大路ホテル奈良の方へ向かって東の階段を上ると、頂きに銅像の立つ噴水が目に入ります。赤膚焼の銅板を積み上げた円錐形の台座の上から、「ある方角」を見つめているのは、「菩薩」の称号を得た奈良時代の高僧、行基(ぎょうき)です。待ち合わせ場所として有名なこの場所を、奈良の人たちは親しみを込めて「行基さん前」と呼びます。

近鉄奈良駅地上にある行基菩薩の噴水

近鉄奈良駅地上にある行基菩薩の噴水

行基とは何をした人なのか、おそらく奈良の人たちがもっともよく知っているのが、東大寺の大仏造立のために活躍したということです。しかし、行基が大仏の寄付を募る「勧進(かんじん)」という大役を引き受けたのは、当時では超高齢と思われる76歳になってからのことです。それから6年、開眼に向けて邁進し続けた行基でしたが、開眼法要が行われる3年前に82歳の生涯を閉じました。噴水の上の行基さんが見つめる先にあるのは、生きている間に見ることの叶わなかった、東大寺大仏殿と盧舎那大仏なのです。

弾圧から一転、大僧正に

行基は、今から約1350年前の668年に、現在の大阪府堺市で生まれました。15歳で出家しましたが、前半生は詳しくはわかっていません。40歳を迎えようとする頃、行基は生駒山の東(現在の生駒市有里町)に母を連れて草庵をむすび、母が亡くなるまでの3年間を介護に励みました。時代は平城遷都の頃。全国から多くの民衆が都の造営に駆り出され、苦しんでいましたが、当時の僧に求められていたのは、寺院の中で国のために祈ること。民衆への布教活動は法律で禁じられていました。身近な母の死、そして人々の苦しみに直面した行基は、改めて仏教の意味、僧侶である意味を見つめなおしたのではないかといわれています。

以降の行基は、道路を整え、橋を架け、池をつくるなどの土木事業のリーダーとして、民衆とともに歩み始めます。困窮者を救護する「布施屋(ふせや)」と呼ばれる施設も各地につくりました。その活動は現在の社会福祉事業の先駆けといえるものですが、行基を慕う人たちが増えれば増えるほど、国はその力をおそれ、弾圧を加えたのです。

730年、現在の奈良公園の一角「飛火野(とびひの)」に、行基を慕う数千とも数万ともいわれる人たちが集まったことがありました。『続日本紀』には、聖武天皇が行基のことを「妖言して衆を惑わす(あやしい言葉を使って民衆を惑わせる)」と糾弾したことが記されています。その聖武天皇が少しずつ態度を軟化させ、743年に大仏造立の責任者に行基を大抜擢したのです。「一枝の草、一握りの土を持ち寄るだけでもいい、できるだけ多くの人々に参加してほしい」と呼びかけた大仏造立の大プロジェクトは、民衆とともに事業を成し遂げてゆく行基の考えと同じだといえます。

「お水取り」と行基菩薩

東大寺では、大仏開眼と同じ752年から連綿と続く「二月堂修二会(お水取り)」の中で、創建以来ゆかりのある人たちの名前が記された「過去帳」が読み上げられます。トップバッターはもちろん聖武天皇、次に聖武天皇の母である聖武皇太后宮、3番目には聖武天皇の后である光明皇后の名が続きます。そして、藤原不比等よりも早い4番目に読み上げられるのが「行基菩薩」であるということは、あまり知られていません。過去帳が読み上げられるのは、お水取りの期間中3月5日と12日です。

生誕1350年を記念して2018年に開催された「行基さん大感謝祭」

生誕1350年を記念して2018年に開催された「行基さん大感謝祭」

行基入滅の地、喜光寺

近鉄奈良駅前の国道369号線(大宮通り)を西へまっすぐ5キロメートルほど進むと、721年に行基が創建した「喜光寺(きこうじ)」が、北側に見えてきます。この場所は、現在も使われている菅原町の名が表すように、のちに菅原道真を輩出した菅原氏の里でした。当初は「菅原寺」と呼ばれていましたが、聖武天皇が参詣された際に本尊から光明が放たれ、その光を喜んだ天皇から「喜光寺」という名を賜ったと伝えられています。

喜光寺遠景 左が再建された山門、右が重要文化財の本堂

喜光寺遠景 左が再建された山門、右が重要文化財の本堂

重要文化財である本堂は、東大寺大仏殿の試作として建てられたため、「試みの大仏殿」とも呼ばれています。大仏殿よりコンパクトですが、どっしりとした佇まいや天井の高い堂内は、大仏殿を彷彿させて威風堂々としています。

「試みの大仏殿」とも呼ばれる喜光寺の本堂

「試みの大仏殿」とも呼ばれる喜光寺の本堂

喜光寺の本尊阿弥陀如来(中央)と両脇侍の姿勢菩薩(左)と観音菩薩(右奥)

喜光寺の本尊阿弥陀如来(中央)と両脇侍の姿勢菩薩(左)と観音菩薩(右奥)

近年建て替えられた写経場では、随時「いろは写経」ができる

近年建て替えられた写経場では、随時「いろは写経」ができる

行基が眠る、竹林寺

749年、喜光寺で入滅した行基は、母を介護した思い出の地、生駒山の東に自らを埋葬するよう遺言します。それから500年近い歳月が流れた1235年、ひとりの僧が夢で行基のお告げを受けて掘り出したのが、遺骨を納めるための舎利瓶(しゃりびょう)と墓誌だといわれています。現在はともに重要美術品として、奈良国立博物館が所蔵しています。

行基が生涯に手がけた事業は橋6か所、池15か所、寺院50か所をはじめ、道路や用水路、港まで近畿一円多岐にわたり、その精神は弘法大師などの高僧のみならず、現代社会にも影響を与えているといっても過言ではありません。「菩薩」や「大僧正」と呼ばれる地位にありながら、民衆に心を寄せ続けていた行基。21世紀の現在も親しみを込めて「行基さん」と呼ばれることを、何よりも喜んでいるのかもしれません。

「行基墓」のそばに建てられた竹林寺

「行基墓」のそばに建てられた竹林寺

国指定史跡「行基墓」

国指定史跡「行基墓」

登大路ホテル奈良からのアクセス

喜光寺

Webサイト

http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/01shaji/02tera/01north_area/kikoji/

住所

奈良市菅原町508 電話0742-45-4630

アクセス

・近鉄橿原線 尼ヶ辻駅より徒歩10分
・近鉄奈良駅前より奈良交通バス「学園前(南)」行で「阪奈菅原」下車すぐ
・国道369号線を西に5km弱

情報

・拝観時間9:00~16:00
・蓮の開花時期の7月中の土日・祝日は7:00~16:30
(最終受付はともに16:00) 
・駐車場15台

竹林寺

Webサイト

https://yamatoji.nara-kankou.or.jp/01shaji/02tera/02west_area/3nxrupcnpz/

住所

生駒市有里町211-1 電話0742-33-7900(唐招提寺)

アクセス

近鉄南生駒駅から北西へ約1キロメートル

※2019年02月現在の情報です。

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